逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.10.29. 渋谷とやってきた未来

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 若い人に誘われ渋谷で飲むことになったのは、10月29日のこと。そう言ってみれば、もう1ヶ月も経とうとしている。時間はずいぶんと駆け足で通り過ぎていく。

 東急東横線の渋谷駅が地下に潜ってしまってからというもの、地上まで出るのが億劫なり、渋谷で降りるということがなくなった。子供の頃の私にとっては、この街はもっとも身近な都会であり、『ハワード・ザ・ダック』、『ターミネーター』、『ロッキー4』、『コブラ』、『アンタッチャブル』、『太陽の帝国』と、よくわからないごたまぜの映画はおおよそ渋谷で見ていたはずだ。

 地下から地上に出ると、東急文化会館側の地域には、知っているものは、ほとんど何も残されていない。東急文化会館はヒカリエというものになったと聞いていたが、フェイクニュースなどではなく、渋谷パンテオンプラネタリウムの丸いドームは完全に消滅している。歩道橋を渡った向こう側、メリー・ジェーンというジャズ喫茶があった地域にも何も残されていない。代わりに、天空を突き刺すような高いビル。今更のように驚く。いくぶん芝居がかっているが、ここまで変わると、そのような仕草をしないわけにもいかない。

 待ち合わせの店は、グーグルマップによれば、センター街を抜けた宇田川町のあたりにある。そこだけは変わりがない夜空を見上げながら、スクランブル交差点を通り抜けて、東急百貨店に向かう坂を歩いていく。

 そうすると、あの渋谷が少しずつ戻ってくる。もちろん、ブックファーストはなくなり、その代わりにドン・キホーテになるという、自分にとって少なからぬ変化はあるにはあるが、それは知っている。そうはいえども、大盛堂書店もまだ頑張っているようではあるし、そこに至るまでの風景は、さほど変わっていない。さらに角を曲がって宇田川町のほうに足を向けると、私が知っている渋谷が眠たげに顔を上げる。安堵というべきなのかもしれない。私がまだ辛うじて同時代人として生きていくことが許されているようだ。

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 酒を飲み終え、人と別れた後、渋谷駅の近くまでくると、まだ心がざわつきはじめる。いや、単純に新たな風景に好奇心を刺激されて、というのが正しいのだろうが、いずれにせよ、1時間ほど近辺を歩いてみる。どう見ても風景は変わっていて、しかし、桜丘町の近辺はまだ風景は変わっていない場所も残っている。だから、坂に登って振り返ると、昔と今とが同時に目に映る。実に奇妙。さらに歩道橋をわたる。反対側にいく。グーグルとのネオンサイン(というべきなのだろうか)が路上を照らす。階段の各段には、照明が設置され、赤白く光っている。若者が座り込んで話をしている。

 そこを通り抜けると、また来たのか、というような顔をした渋谷にようやく再会できる。富士そばはまだそこにあり、ベルギービール屋もそこにある。

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 私はもう、過去に対する感傷を自分に禁じたほうがよいと考えている。時代はどんどんと変わっていくものだし、自分も変わる。過去の自分のことなど、ずいぶんと忘れてしまい、忘れることを祝していなくもなかったはずなのに、街を歩きながら、過去の自分のかけらを見出すことを望み、しかし、それを探り当てることができずに、あの時のあの風景が消えてしまったと失望する。それはフェアーではない。

 風景はどんどんと変わっていったほうが良い。そのように開け放たれていたほうがよい。新しい人がやってきて、違うことが起こるほうがよい。あの10月29日に私が目にした渋谷の風景は、すでに自分のものではなくなった街のものではあって、少なからず傷つくところもあったのは事実だろう。だけれど、それはそれとして話の中心におくべきではない。むしろ、自分があの風景をとても面白いと思ったことや、もう少し時間がある時にやってきて、もう一度歩いてみたいと考えたことを記録に留めるべきだ。

 とはいえ、当為と存在。

 禁じたはずの感傷がにじみ出てくることも自然であるとはいえて、これを覆い隠すことも事実を歪める。だから、最後に正直に打ち明ければ、私は感傷を禁じつつも、その日、家にもどって、矢作俊彦の『ららら科學の子』を開いた。あれは、渋谷を扱った小説であって、失われた街について、人がどのように何を語るべきかを探ろうとする話ではなかったか。その仮説を確かめるまえに私は眠りについた。