逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.11月初旬. 大阪と少しの安心

 大阪に行ったことがあるのは2回だけだ。

 1回目はかれこれ20年以上も前のことになる。大阪に行ったときに聴いていたのがコーネリアスの『ファンタスマ』だということを今思い出したが、あれを新盤として聴いていたのだから、あれは1997年のはず。つまり、24年前。

 あの時、大阪を訪れたときの記憶はほとんどない。

 就職したばかりの友人が大阪に転勤になり寮に住みはじめた。その寮に2、3泊したように思う。その間、通天閣にいき、道頓堀をみて、お好み焼きを食べたという記憶が微かに残ってはいるものの、むしろ、友人の寮で寝転んで漫画を読んでいたということばかりを思い出す。だから、あれは土地の記憶ではないし、通天閣や道頓堀の記憶があるとしても、誰かの記憶をなぞったものに過ぎない。

 2回目は昨年。ヤン・ヴォー展を国立国際美術館に見にいった。素晴らしい展覧会だと私は思ったし、昨年見た展覧会の中で最も気に入ったものに違いないのだが、ほとんど話題にならなかった。この時、私は、たしかに大阪に行った。大阪に着いた直後に腹が減り、立ち食いの寿司屋で食べていると、女の子が教員をしているという彼氏の話を大阪弁で一緒にいた女の子に勢いよく話しているのを聞いて、ああ、大阪か、と思ったし、夕食を食べている隣で、女の子、男の子、女の子の3名が小笠原でダイビングをしてきたことをゆっくりと大阪弁で語っているのを聞き、ああ、大阪だ、と思った。とはいえ、それだけだ。結局、私はヤン・ヴォー展で満足してしまった。できれば、万博公園に行きたいと思ったが、時間的に無理であり、それを除けば、大阪のどこにいって良いのかが分からなかった。

 13時に大阪に到着し展覧会を見たのち、谷町四丁目の料理屋で夕食を早めにとり、ビジネスホテルに戻り、持参したタブレットをホテルのWi-Fiにつなぎ、DAZNの放映でサッカーを見てしまったら、やることがなくなり、眠った。翌朝7時には、北浜駅から京阪電鉄に乗って京都に行った。

 そのような人間であるにもかかわらず、12月からしばらくの間、大阪に住むことになった。もっとも、人がどこに住むかというのは、別に理由があるものではないだろうし、どのような者であれ、どこに住むかは成り行きだろう。だから、そうした賽の目の幾つかを数えて、自分がどのような人間であるかを結論することはできない。「そのような」私と自分を規定し、それにもかかわらず、大阪に住むと考えるのは私にほかならず、全ては私に起因する。大阪に何の過失もない。とはいえ、大阪に行くことになり、どうしようかと思ったも私ではあって、他方、どうしよう、という私の、この感情がどこに由来しているのかを私は知りたいと思った。

 屈折の上に屈折を重ね、いろいろと分からなくなり、私は大阪を語った本を読もうと考えた。もちろん、観光名所や食べ物のことが記載されているものでなく、また、大大阪の時代や大阪のモダニズムといった過去のことを語るものではない。今、大阪を歩いたり自転車で走るような速度や目の高さから大阪を語っている本が読みたいと思った。

 しかし、アマゾンを検索するかぎりでは、私が見たい速度や高さから大阪を語ったものはとても少ない。

 それはそういうものなのかもしれない。例えば、私は川崎出身であるが、考えてみれば、そのような速度や目の高さから川崎を見つめた本とはほとんどなくて、辛うじて思い出されるのは『ルポ川崎』くらいである。そして、生活するということはそういうことなのかもしれないとも思う。どのような土地であれ、生活者がその土地で生活することはあまりに当たり前であって、歩いたり自転車に乗ったりして、その間にあった何かを書き記すということは、かえって非常に困難なことのようだ。

 それでも、岸政彦と柴崎友香の『大阪』と江弘殻と津村記久子の『大阪的』があった。そして、これらを読んで、少し安心した。

 より具体的にいえば、津村記久子の「好きやねん、大阪」というのはすごく違うという発言が私を安心させた。私も「おもろい恋人」という大阪土産がものすごく違うと感じている。しかし、私は、当初より相容れない、そのベクトルにしたがって大阪を組み立て、さらに、やしきたかじんの空気人形を紐に結びつけ、相容れない上に相容れない「大阪」というものをアドバルーンのように勝手に浮き上がらせ、「どうしよう」と頭を抱えたのではなかったのか。さらにまた、私は柴崎友香が語る大正区に安心した。川崎や横浜の鶴見と大正区の何もない風景が重なり、心斎橋と渋谷の90年代が重なった。ここまで重なれば、少なくても、その土地に何の取っ掛かりも手がかりも得ることができないということもなかろう。

 私はそんな風に少し安心したのだった。