逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.11.12 京都と安心な僕ら

 私にとって、京都の最初は烏丸御池にある大垣書店だと思う。たまたま泊まったビジネスホテルで、夜、夕食を食べ終えてしまうとやることがなくなり、烏丸御池まで歩いていき、本を眺めていたら、小野不由美の『営繕かるたや怪異譚 その弐』が売っていた。旅先で読むには、ちょうど良い。それを買った。そして、京都市役所前のほうに歩いていった途中にある二階の喫茶店で短編の幾つかを読んだ。それが楽しかった。

 もちろん、それだけではないけれど、京都をこのところ何度も訪れているのは、そうしたことを繰り返したいからという所も多い。大垣書店だけではなくて、少し調べるだけで、訪れたいと思う本屋が幾つか見つかり、座りたいと思う喫茶店がたくさん目に入る。一乗寺にある恵文社浄土寺にあるホホホ座に行って、何冊か本を買って、喫茶店に入って読む。

 東京や横浜でもそうした生活をすることはできるし、もしかしたら、京都よりも選択肢は多いのかもしれない。ただ、そうする気になれないのは、ひとつには、私が出不精で、しかも、家にいるのが好きだということが第一なのだろうが、もうひとつの理由もある。私はひどくだらしない人間ではあるけれど、他方で、どうにも融通がきかないところを捨てきれない。型を崩せない。今いる土地には今いる生活が目の前にあって、あたまの何処かで、娘や妻のことを考えているし、先に控えている仕事のことを考えている。本を買って喫茶店で封を開けて、というのは、過去の生活のことで、そう、学生の頃にもう終えてきたことなのだから、と考えている節がある。

 京都にいくと、どういうわけか、そうした型を少し崩すことができる。まったく、どういうわけなのかと思うのだが、鴨川の河畔で座っている人たちを眺めたり、洋食屋に長い行列を作っている人の脇を通り抜けたり、お寺で青い紅葉を見上げたり、タクシーの運転手に甲子園が中止になったことの感想を尋ねられたり、中華料理屋で会計を済ました後に、コロナウィルス予防になるので「どうですか?」と、サランラップに巻かれたマコモダケの皮をお土産にもらったりしている間に、私はだんだんと気楽になる。そして、型を崩して、まあいいかという気になって、融通を効かす。少しは昔のように気楽になっていいのではないかと思う。そうして、本屋に行って、取り留めもない本を買って、喫茶店の席に座って、封をひらく。遠くの席では、たばこを吸いながら、学生がフランス映画の話をしている。

 11月12日に京都に行った時には、私はずいぶんと疲れていた。

 残してきたものも気になるし、かといって、先には進まないとならないし、といった綱渡りのような状態にあって、だから、大阪で部屋を探すのにかこつけて、京都に立ち寄ること自体、何処かで間違っているような気もしていたのだが、とはいえ、1日でも構わないので、私は気楽になりたかった。

 だから、私は大阪に行く前に京都に一泊して、鯖定食を食べ、上賀茂神社から北山駅まで歩いた。ホテルに荷物をおいた後、夕方の早い時間に夕食をとって、京都御所の前を歩いて本屋に向かった。もう日は暮れていて、とおりに面した店は1日を終えるものと人々の夜がはじまるのを準備しているものとに別れていた。

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 誠文社は行こうと思っていたけれど、予定があわずに見送っていた京都の本屋のひとつで、だから、とおりからひとつ入ったところにある店から光が漏れているのを見て、ようやく来たような気もしたし、同時に、少し緊張もしたのだけれど、本を眺めている間にそうしたことも忘れ、『辛口サイショーの人生案内DX』と『奇祭巡礼』と『戦争とおはぎとグリーンピース』という取り留めもない本を3冊買って、店を出た。そして、そのまま南に向かって歩いていき、京都市役所前のあたりで曲がって、喫茶店に入って、どれから読もうかと封を開けた。