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2016.10.09-2022.3.6/20 ホームカミングスまでの遠回りの道


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 今はもう信じられないようなことだけれど、妻は、年に1回か2回ほど海外に出張することがあった。2019年までのことだけれど、とても遠い日々のことのように感じる。

 妻が海外出張に行ってしまうと、1週間ほどは、私と娘だけの生活になることになって、お迎えにいって食事を作って、保育園に連れて行ったり小学校に行かせたり、という単調な生活を送ることになった。それはそれとして、今考えると、面白いことだった。妻がいるといないとで、微妙に、何処かしらで娘との関係がずれて、お互いに当惑しつつ、妻が帰る頃には、もう、お互いの存在に慣れて、ということを繰り返していた。いや、普段、私と娘の関係が変というわけではないのだけれど、しかし、妻なしの相対の状況というのは、非日常感があったといえば、分かってもらえるだろうか。

 調べてみると、2016年の秋のことだったことが分かったのだけれど、妻がいつものように海外の何処かに行ってしまって、週末に何もしないのも詰まらないと考えた。それで、私は、娘を連れて、越後妻有の秋のプログラムに行くことにした。

 その年の越後妻有の秋のプログラムというのは、今でもよく分かっていないところも残るが、越後妻有の点在するインスタレーション作品を廻るという企画だった。ツアーに参加すると、塩田千春の「家の記憶」やクリスチャン・ボルタンスキーの「最後の教室」や鞍掛純一の「脱皮する家」を見せてくれるという。しかも、ツアーの最後には、日帰り温泉に寄ってくれて、三省ハウスという廃校になった学校を宿舎に変えた施設に泊まることができる。

 行った人は分かると思うけれど、塩田千春の「家」は、必ずしも公開されているわけではないし、そこから、「最後の学校」や「脱皮する家」や、付け加えれば、「絵本と木の実の美術館」に立ち寄ったり、「うぶすなの家」で昼食をとるということになると、スケジュールを組むのは、かなり大変。そのツアーは、それを1日のスケジュールにまとめてくれた。しかも、参加者が我々だけであった。今考えても、あれはすごいツアーだった。今もあるのだろうか。

 娘は「家の記憶」や「最後の教室」をどのように見たのか、正直、よく分からないような様子であったけれど、なんとなく着いてきて、もやっと見て、食事を美味しそうに食べて、というのは、いつものことで、私としても、娘に何かを求めるということでもなく、正直に言えば、私が楽しければ、それでいいというところもあるので、あの時、娘が何を感じていたのかは分からない。

 今考えると、あの時のあの企画はすごかった。というのは、そうした1日が終わったところで、三省ハウスの校庭で平賀さち枝が弾き語りをするという企画もあったからだ。どういうわけなのかよく分からないが、夜になると、平賀さち枝がもやんとやってきて、2時間くらい、ひとりで唄って去っていった。いや、去っていたわけでなく、三省ハウスに泊まっていた。

 平賀さち枝のことは、その時初めて知った。そして、娘と一緒に聴いたという記念的な、いや、よく分からないが、何かを残しておきたいという気持ちもあって、平賀さち枝のサイン入りのCDを買った。平賀さち枝からは「美人だねえ」と娘が褒められて、私は嬉しくなった。いや、美人じゃなくても、娘は私の娘でいてくれれば、それで別にいいのだが、何にせよ、娘が他の人から好意的に語られると嬉しかった。

 いずれにせよ、そうしたことがあって、家に帰り、妻が海外出張から戻って落ち着いたところで、平賀さち枝を調べて、平賀さち枝とホームカミングスの「白い光の朝に」という曲を知った。それで、ホームカミングスを知った。

 平賀さち枝平賀さち枝でいいのだが、というか、綿毛が中空に浮かんでいるような、そうしたふとした瞬間を綺麗に切り取るのがすごく好きではあるけれど、ここでは、ホームカミングスのことを書こうとしていたので、ホームカミングスに話を移すと、そこから何となくずっと聴いている。そうして、3月6日の京都と3月20日の大阪で、娘から遠く離れた土地でライブを見にいくことになった(続く、かどうかは分からない)。