逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.4.23 行き止まりの格好

 ゴールデンウィークの旅は京都と奈良にした。

 ホテルとレストランの予約も終え、加えて、どの道を歩くかの目処も立てたところで、ふと何を着ていくのかと考えて、愕然とした。大阪にやってきたが冬だったものだから、気づくと、手持ちの服は季節外れになっていた。

 横浜に服をおいてきたというわけではない。事情を説明すると、この数年間、この時期、ほとんど同じ服を着ており、その結果、穴が空いてしまったものや、へたれてほつれてしまったものが大半で、妻に言われて、昨年ずいぶんと捨てた。だから、着るものがなくなってしまったので、ほとんど何も持ってこなかった。

 買わないとならない。だけれど、今の気分を正確にいうと、何も着たいものがないし、買うに出るのも億劫だ。もちろん、裸になりたいわけではない。

 だったら、何でもいいではないかと思う人もいるかもしれないが、それはそれで乱暴な話で、私だって、景色に馴染み、一定程度の品位を保つことができる身なりはしたい。面倒くさい人間だ、こんな奴のこんな話には付き合いきれない、といわれれば、返す言葉もない。私にしてみても、そんな私と付き合っていくのは簡単なことでない。

 面倒な自分を持て余しながら、ゴールデンウィークの前の週末、昼食に谷町のやどカレーを食べた後、天満橋の駅ビルにあるジュンク堂書店村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーの小説を買いにいったついでに、無印良品に寄ったところ、チャコールグレーに染められた麻の、今どきの言葉でいうと、セットアップというのだろうか、私の言葉でいえば、ジャケットとパンツの揃いと言いたいところなのだが、そういったものが吊るされていて、「5月ならば、これでいいか」と思って、買うことにした。

 一応これで何とかなると思い、実際、ゴールデンウィークの旅行を終えてみれば、これで何とかなった(何とかした、というのが正しいかもしれないが)。それはそれとして、1ヶ月ぶりにあった妻に「これ、新しく買ったんだ」と伝えたところ、「…え、あ、そう。今までと変わらないから、ぜんぜん分からなかった。ぜんぜん。あはは。」と強調された上で笑われてしまった。何とか頑張って新調したにもかかわらず、軽くあしらわれたところもあり、憮然としなくもなかったのだが、実際、そうなので、仕方がない。

 北野武の映画では、北野武が演じているヤクザはだいたい背広とシャツといった格好をしている。私は、仕事以外でほとんどシャツを着ることがなく、薄手のセーターかカットソーを着ているので、全く同じというわけではないのだが、この時期、ほとんど常にセットアップ的な格好をしているので、内側は違うにせよ、北野武のヤクザの格好と外側は同じような感じになってしまっている。言うまでもなく、それを目指しているわけではなく、単にそうするほかないので、そうしているわけで、退却に引き続き退却を続けた結果、そのような格好に落ち着いているというのが正しい。

 そうしたことを考えていて、ふと思ったのは、『ソナチネ』の映画のことで、あの映画でもまた、北野武のヤクザは背広と白いシャツをだらりと着ていて、若い頃は、あれはあれで1つのスタイルだと思っていたものの、この歳になってみると、それ以外に何を着ても仕方がないという行き止まりの格好があれだったのではないかと、そう見えてくる。実際、物語そのものとあの格好は呼応している。そんな不正確な推認を重ねたくなる。いや、夏の沖縄であの格好は全く無理なのだから、北野武がそのように考えていたとしても不思議ではないだろう。そういえば、さらに行き止まりの映画である『Hanabi』だって、主人公はあの格好だったのがそれを裏付けている。

 いや、強弁もこのあたりにしなければならないが、行きつ戻りつつ言いたかったのは、この歳になってしまうと、単純に何を着たものかと困るということで、そんなところにも、長くて深い川が横たわっている。若い頃は、何を着るかと考えて楽しかったけれど、それは旧石器時代のことになりつつある。辛い。

 ところで、カート・コバーンが生きていたら、どんな格好をしていたのだろうか。円形脱毛症になりながらも、中途半端な長髪であの格好を貫いて、私を励ましてくれていたかもしれない。いや、そうだと、ニール・ヤングとあまり変わらない。