逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.5.8 彷徨えるカレー店

 当時はそう考えることも少なかったけれど、新型コロナウィルスの蔓延防止等重点措置が講じられていたあの冬は暗くて寒かった。

 冷え冷えとした風が吹きすさんでいた日の夕暮れに「肉すい、食べたい…」と歩いていったら、あの肉すいの店が閉まっていた日があった。蔓延防止等重点措置と街灯の照度との間に何の関係もないにもかかわらず、肉すいを食べることができなかった私の心は重く沈み、街全体が暗くなったように感じたものだった。

 あの日、さて、どうするかと考えて、とぼとぼと周辺を歩いていたら、暗がりの中、そこだけが明るく照らされているような場所があって、冬の蛾のように息絶え絶えのまま、ふらふらと近づいていったところ、そのカレー屋があった。その店だけが開いていたのだった。助かったと思いながら、店に入り、カレーを注文した。

 大阪にはカレー屋が多い。私の住んでいる地域だけでも、正確に数えたことはないものの、10軒近くのカレー屋がある。大阪に来てからというもの、そのことを不思議に思っており、先日、大阪生まれの若い知人に理由を尋ねたところ、「確かに、そうですねえ。どうしてでしょうかね。」と逆に問い返されてしまった。

 私の仮設は、大阪というか、関西は出汁文化であって、カレーのスパイスもまた、出汁の文脈で捉えられており、その上で、大阪の人はたこ焼きやらお好み焼きやらといった、いわゆる「粉もん」を普段食べているので、刺激が欲しくなることがあり、出汁を基盤としつつ刺激も与えてくれるスパイスカレーに惹かれてしまうのではないかといったものであり、若い知人にそのことを伝えたのだけれど、その人は「そんな、大阪人は、毎日、粉もんばっかり食べているわけではないでしょ。そりゃ、大阪、馬鹿にしすぎ、ちゃうの?」と返されてしまった。

 じゃあ、どうして、こんなにカレー屋が多いのかと、その人に再度尋ねると、「いや、大阪は馬鹿が多いから、違うん?」と過激なことを言い出し、「つまりですね、例えば、ひとつの街にラーメン屋が並んでいたとしても、それほど違和感はないでしょ。でも、同じ場所にカレー屋がずらっと並んでいたら、馬鹿ちゃうかと思いまへん?カレーなんて、そんな食べるもんじゃないのに、カレー屋、カレー屋、カレー屋となると、ちょっと頭、おかしいのちゃう?と。」と言われた。

 実のところ、私はその説には承服しかねるし、確かに、経営者の目線でいえば、カレー屋が立ち並んでいる場所にさらにカレー屋を作ってしまうというのは、ある意味、愚かなことと言えるのかもしれないのだが、しかし、受容がないところに供給もないはずで、私の仮設は、お客の目線で、どうして、こんなに大阪の人たちはカレーを食べるのかという問いに対する回答であったので、私と彼の前提は異なるということもできるのだが、その場では、彼の勢いに押されてしまい、言い方も面白かったので、ただ笑って話が終わりになってしまった。

 長い迂回路になってしまったが、私の仮設を裏付けるものとして、あの寒い冬の日に食べたカレーがある。それは、鰹出汁をベースとした南インドカレーであって、しかも、スパイスのひとつに山椒を使っており、だから、まさに関西を感じさせる。単に美味しいといえば良いのかもしれないが、あのカレーを食べて、「ああ、だから、大阪では、カレーなのだ」と私は理解した(ような気がした)。そして、あの日、私の仮設が生み出されたのだった。

 そうしたこともあり、私にとって、大阪のカレーといえば、その店になるはずだったのだが、私は、その日以来、あのカレー屋を見失ってしまった。2度、3度となく食べようと思って出掛けていくのはいいのだが、「ここらへん」と思う場所に店がないのだ。どういうわけなのかと思うのだけれど、見つからない。

 仕方がないので、もう少し歩いて、やどカレーというフランチャイズ系のカレー屋に赴いたり、そうでなければ、独立系の小さなカレー屋に行ったりといったことを繰り返していた。それはそれで美味しいのだが、しかし、あの店に比べれば、出汁を感じさせないところに物足りなさを感じていた。

 そうしたところで、今日もまた、昼食にやどカレーでカレーを食べようかな、と思って歩いていたところ、なんと、あの彷徨えるカレー店をようやく見つけることができた。何度も通りかかっていたはずなのに、俺はどうして見つけられなかったのだろうかと不思議だったのだけれど、その店はあった。今日のカレーは牛タンカレーであったけれど、それでも、やはり鰹出汁と山椒の刺激は健在で「ああ、大阪のカレーや…」と勝手に思い、また来たいと思った。

 それにしても、私は、ふたたびあのカレー屋に辿り着くことができるのだろうか。ふたたび見失ってしまうのではないだろうか。これを書きながら心配になってきた。