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2022.4.20 深く穿たれた穴

 レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』は、記憶では、渋谷の大盛堂書店で買ったことになっていて(正確ではないかもしれない)、清水俊二訳だった。村上春樹訳が出たときに、Amazonでハードカバーのものを買ったのだけれど、最初の部分、つまり、テリー・レノックスがやってくるところあたりで、どうも合わないところがあって、そのままになっていた。

 何処がどう違うのかと言われると、なかなか難しいところがあるのだが、清水訳に育てられてしまった者としては、少しカラフルすぎるというところがあったのではないかと思う。村上訳は、あえて抑制を外すようなところがあり、そこがあの物語に合わないように感じた。

 大阪にやってきて、不意に『長いお別れ』を読みたくなってしまい、もちろん、そこまで準備がよいわけではなく、もはや両方ともに持っている者としては、さらにもう1冊ということになるのもどうかとは思ったけれど、結局、電子書籍で村上訳のものを買った。清水訳にしなかったのは、村上訳を読みきれなかったことに少し心残りがあったからだろうと思う。

 村上春樹のことを書くにしても、自分が書くようなことはほとんど残されていないのだろうけれど、『長いお別れ』との関係でいえば、『ダンス・ダンス・ダンス』が最もその影響を感じさせる。鼠三部作の後の『ダンス・ダンス・ダンス』という、ある意味、村上春樹の作品群の中でも重要なものの1つにその影響が及んでいるということである。その意味で、『長いお別れ』は、村上春樹を読む上でもキーとなる作品であると言ってもよい。そのように考えると、『長いお別れ』の村上訳を読まないという状況というのは、好ましくないと思っていた。

 今回読んでみて、清水訳との関係でいえば、やはりよりカラフルになっているという印象は変わらなかったものの、それは、旧いフィルム映画がデジタルリマスターされた時に感じるのに似て、肯定的に捉えることができた。より解析度が上がり、物語の見え方がかなり違う。

 確認するまでもないことだけれど、『長いお別れ』は、入れ子構造になっており、テリー・レノックスの物語がアイリーン・ウェイドの物語を包み込むように作られている。2つないし複数の物語を組み合わせて長編小説を作っていくという手法は、レイモンド・チャンドラーがしばしば、というか、ほとんどの長編小説で用いるものである。『長いお別れ』もまた、その例に漏れないと言うこともできるわけだが、清水訳を読んでいると、私としては、テリー・レノックスの物語とアイリーン・ウェイドの物語の蝶番のかみ合わせが悪いように感じることがあった。なぜ、アイリーン・ウェイドがマーロウに依頼したかという理由について、若干厚塗りし過ぎているように感じる。そこが極めて重要なのは分かるのだが、もう少し、さらりと流したほうが良かったのではないか、と。

 村上訳を読んでも、そうした瑕疵を見出そうと思えば見いだせることは事実ではあるが、村上訳では、アイリーン・ウェイドの物語が挿入された1つのエピソードに過ぎないといった、さり気なさがあり、だから、実際には、私が感じていたあの厚塗りはほとんど感じられず、結果として、あのかみ合わせの悪さがほとんど感じられない(清水訳と村上訳の違いを逐一追っているわけではないから、どうして、そんなことになったのかは分からないのだけれど、清水訳で省かれていた部分が省かれていないというヴォリューム的なものなのかもしれない)。

 それと共に、興味深いのは、解析度が上がることによって、レノックスやメンディー、そして、警察官のオールズといった人物と、マーロウとの対立や断絶が鮮やかに感じられるところだ。もちろん、レノックスやメンディーについては、清水訳であっても、そうなのだが、オールズについては、そこまで目がいかなかったというのが正直なところだ。解析度が上がったことによって、複数の絶望的に隔てられた者たちがそれぞれの立ち位置で何かを切実に望み、時として、寄り添うことを切望しつつ、結局、その隔離を乗り越えることができない悲劇性がより明晰な形で強調されることになった。

 こうした他者と対立し決定的に遠ざけられていることに対する痛みの感覚を1人称によって描く時、他者は世界の中に穿たれた空虚であると同時に理解し難い混沌とした深い穴としてたち現れてくるわけだが、特に、村上訳では、テリー・レノックスのそうした空虚性というか虚無性、その混沌した有り様は、より如実にありありと感じられる。

 ところで、こうした関係性の病というか、他者と決定的に遠ざけられ、決して交わることはないことへの痛みの感覚は、20世紀の小説が19世紀から引き継いだものの最も大きなものの1つであるようにも思われる。もしかしたら、それはドストエフスキーの小説にまで遡ることができるかもしれないと大きな風呂敷も広げたくなるところもあるのだが、それは措くとして、村上訳により、この作品に示されている、そのような痛みの感覚をより明晰にしっかりと捉えられるようになったというのは、読者にとっては、僥倖であり、また、この作品が20世紀の偉大な小説と共通する資質を有していたということをより明確にするという意味で、いくぶん低くみられていた感のある、この作品の地位を引き上げることに貢献するところは大きいのではないか。

 もう1ついえば、こうした痛みの感覚と村上春樹の相性の良さはやはり否定し難いところであって、つまり、村上春樹の作品群をみると、今述べたような感覚がどんどんと深化し複雑化し深刻なものになる過程として見ることもできる。レノックスという深く穿たれた穴は、当然ながら、五反田君に引き継がれていると見ることができ、最近の作品はほとんど読んでいないものの、かろうじて読んでいる『女のいない男たち』にも、その通低音は確かに響いている。長い時間的離隔はあるものの、そのような共通する痛みの感覚を描いてきた者同士が築き上げたのが村上訳の『ロング・グッバイ』ということになるのではなかろうか。

 ビッグネーム村上のことを書くつもりは、全くなかった。しかし、結局、書いてしまった(やれやれ(村上語))。それはそれとして、村上訳、悪くない。いや、いいです。結局、この1ヶ月弱の間、『さよなら、愛しい人』、『水底の女』、『リトル・シスター』、『大いなる眠り』、『高い窓』と、ほぼほぼ全部読んでしまった。特に、『リトル・シスター』は、もう一度、村上訳で読んだほうがいいです。特に相性がいいと思うし、全く印象が変わる。