逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.5.22 丸太町、北大路、東京、鞍馬口、大阪


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 ゴールデンウィークの京都や奈良は、1日を除けば、呆れるほどに晴れきっていて、晴れた日や強い日差しが好きな私は、それだけで恵まれていると感じながら、妻や娘と京都のモーニングや奈良のスペイン料理を食べ、大阪に戻ってきたのだから、5月22日、独りでふたたび京都に向かう日に薄く曇った日和になったのは、何処かで何かがバランスをとったのだと自分を納得させようとしたが、それでも「あーあ、曇っちゃったか」と残念に思った。

 京阪烏丸駅から市営地下鉄の四条駅で乗り換え、丸太町駅で降り、ハマムラという中華料理屋の扉を開く。ひとりのお客が席に座っている。乱視がひどい目を凝らしながら、メニューを左から右、右から左となぞるが、からしそばを見つけることができず、それでも、それが目当てだったのだから、諦めるわけにもいかず、「からしそばはありますか」と尋ねると、おばあさんが「からしそば、できる?」と厨房に声をかける。厨房からは「今なら、ええよ」と声が返ってくる。安堵する。からしそばは、あんかけ焼きそばのあんが洋辛子で味付けされているといえば、一番近いと思うのだが、それにしても、それだけだと全く言葉足らずで、あの美味しさをどう表現してよいか分からないが、ともかく、うまい、と思う。

 食べ終えて、そのまま並びの洲濱というお菓子を売っている店で珈琲を飲みながら、洲濱を食べる。春に家族で来たときは、お菓子を買って、京都御苑のベンチに座り、みんなで食べたことを思い出す。娘がとても気に入ったことも思い出し、横浜に送ってやろうかと思うが、日持ちしないようなので、諦める。

 京都に来たのは、紫明会館で午後5時からはじまる寺尾紗穂とMomのライブを見るためだったので、午後一杯時間がある。どうしようかと考え、そのまま大徳寺に行くことにする。バスでいけば、すぐに行けるのだが、何しろ時間だけはたっぷりある。この歳で、時間だけは有り余ってますよ、いや、実際、今日はライブまでやることがないんですわ、という雰囲気を醸し出してしまうのは、私が何処かで道を踏み外し、私の中で何かが欠落していることを如実に示しているに違いないのだが、それはそうなので、仕方がない。

 いずれにせよ、時間があるので、バスは選ばずに、北大路駅まで地下鉄で行き、北大路から大徳寺まで歩くことにして、京都の住宅街をずっと歩くことにする。高度制限が厳しい街だから、低層の戸建てやアパートがずっと続いていて、しかし、烏丸や四条やといった街とは違って、筋道はなだらかに湾曲したり、クランチ状に曲がる。北大路から先はそういうことか、と思う。空はずっと曇っていて、ぽつりぽつりと降ったり、傘を持たずにやってきた私は、少し心配になるけれど、まあ、ええかと関西弁で考える。

 それにしても、その日はライブにいくというモードになっていて、大徳寺の塔中のお寺にあるお庭を見ていても、うまく入り込めない。もちろん、私が寺を歩き静かに綺麗な庭を見ることとライブに行くことという2つの行為の組み合わせを今まで経験したことがなく、それに慣れていないだけかもしれない。普通にこなしてしまう人もいるかもしれない。しかし、例えば、薬師寺に行った後にハードコアのライブに行くという予定が入っていたら、やっぱり薬師如来を見ていても、たいていの人は落ち着かないのではないだろうか。いや、よく分からないが。

 庭に集中できないので、もう、その日は諦めて、大徳寺を超え、今宮神社にお参りをして、炙り餅を食べる。ライブの前に炙り餅というのも、なんだか調子が狂う人もいるかもしれないが、単に美味しいので、そのあたりはそのあたりで、私としては、調子が狂わない。通りを眺めながら、京都の餅はうまいな、と思う。抜かりがない。

 時計を見ても、まだ時間が残されている。そのまま紫明会館まで歩いていく。紫明会館の前まで来ても、まだ予定時刻まで1時間ほどあったので、そのまま通り過ぎ、京都で撮影があるときに高倉健が通っていったという喫茶店にいく。私は『昭和残侠伝』を全部見てしまう程度には、高倉健のことが気になっている。好きかと尋ねられると、どうも違うのだが。

 奥行きのある店内のちょうど真ん中あたりの席に座ると、店主の視点を感じ、「ん?」と思い、振り向くと、高倉健がその席に座っている写真が壁にかかっている。ここは座ってはいけない席なのではないかと思い、席を移ることにして、しばらくすると、若者がやってきて、無造作にその席に座り、注文する。思い過ごしのようだった。1杯目を飲み、美味しかったので、おかわりする。

 寺尾紗穂は、音楽からでなく『南洋と私』という本から興味をもった。一時期、というか、今もだけれど、沖縄のことを書いた本を間欠的に読んでいる時に、戦前の南洋庁という官庁を知った。その兼ね合いで、中島敦の南洋ものというカテゴライズが正しいのかどうか分からないが、一連の短編を読み、なんとも言えずに良いものばかりで気に入った。そして、南洋庁時代の中島敦のことを調べているうちに、『南洋と私』がそれについて書いていると知り、手にとった。読んでみると、寺尾紗穂の見るものや聞くものに対する距離のとり方に独特なものがあって驚かされたのだけれど、その後、音楽も作っているということを知って聴きはじめ、冬に別れても含めて聞いている。

 紫明会館の3階からは、白く霞んだ夕暮れのなかで東山が淡墨色に滲んだかのようになっているのがよく見えて、寺尾紗穂の演奏がはじまり終わるまでの間に少しずつ夕闇の中に消えていった。この土地では、こういう風に日が暮れるのかと思う。

 寺尾紗穂の唄は、するっと聴こうと思えば、するっと入ってしまうし、包み込むような優しさや繊細な透明性があることは確かで、それはそうなのだが、聴いていると、深くて濃い闇、鉄橋をわたる電車から見下ろす夜の川のようなものが奥底に流れているように感じることもあって、一筋縄ではいかないと思う。

 どういえばよいのか分からないが、そう、例えば、その日のライブで歌われた「安里屋ユンタ」といった民謡は、今にすれば、何というか観光地的な意味合いで、するっと入ってくる。竹富島にいけば、私たち観光客は、牛車に乗りながら、安里屋クマヤの家の前を通り過ぎながら、牛を操るおじさんが唄う、あの曲を聴くこともあると思う。場合によっては、私のように、サンダルを履いて、その家に設えられた売店でマンゴージュースを飲むこともあるかもしれない。

 それはそれでとても楽しいことなのだが、同時に、あの曲は、琉球政府八重山の民衆に対する残酷な搾取とそれに対する嘆きが前提としてあるのだろうし、だから、竹富島の女性が琉球から派遣された役人に求婚され、これを拒絶するという行為を歌い継ぐことは極めて政治的なものであったのだろうと想像するし、他方、女性の身体を通じて、中央政府に対する抵抗が表象されることに居心地の悪さを感じる。さらに、それが時代を経て、八重山を超えて「沖縄」の民謡として一般化されて歌われることになり、今となっては、本土の人間がそれを観光地的に聴いてしまうという、幾重ものねじれがそこにはあるのではないかと考える。そうすると、実のところ、「安里屋ユンタ」を唄い、それを聴くというのは、なかなか難しいことになる。

 とはいえ、寺尾紗穂は、そういったところも含めて、そのまま唄っている。ねじれにねじれたものをそのまま提示する。その強度に私はうたれ、楽しく聴いているのだが、同時に、簡単に飲み込めないものを抱えることになる。一筋縄ではいかない。

 その日歌われた「なんにもいらない」という曲もまた、演奏の前の話を聞いて、そうしたねじれにねじれたものを唄っている曲だったことを知り、私のなかに棘が残された。そういう音楽もあるし、それを評価しないわけには、やはり行かない。

 Momのターンがやってきて、私はともかく東京のことを思い出した。ああ、こういう話の仕方や繊細さの中で、私は育ってきたのだと勝手に感じた。湿気のせいで、くるりと癖が強く出た耳元の髪を指差して「いや、こういうところもね、いろんなところを見ていってくださいね」という照れ隠しも、その日語られたスカイツリーが目の前に塞がるようにあることへのねじれた感情も、さらには『タクシードライバー』の歌詞のすれ違って傷ついていく感じも、ああ、東京の下町だなと思い、大学生の頃にいた「ハーマン」というあだ名だった友人のことを思い出した。そして、これほど京都に浮かれている自分がどうして東京のことを思い出して、センチメンタルな感情に襲われるのかと不可解に思いながら、育った土地に対する感情を初めて理解したような気がした。

 いつものように時間はすぐに通り過ぎて、音楽は終わる。何かを抱えながら、紫明会館を後にする。鞍馬口の駅まで歩き、地下鉄に乗った後、ふと、四条で降りて一蘭のラーメンを食べようかと考えたが、結局面倒になって、大阪に戻って、よく分からない博多ラーメンを食べた。京都で降らなかった雨が大阪では降り続いていた。