逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.6.29-6.30 不穏さだけを残して消えた街

 若い友人に本を薦めたことは、この前書いたばかりだが、薦めた本の中に、何を思ったのか、阿部和重の『インデヴィデュアル・プロジェクション』が含まれていた。面白かった記憶があったからだと思うのだが、それにしても、1回読んで、そのままになっている本を薦めるのは、無責任だったと反省する。

 そうこうしているうちに、若い人に「この前薦めてもらった『インデヴィデュアル・プロジェクション』、ちびちび読んでいますが、結構、面白いですね」と言われ、「それは、良かった…ん?」となってしまった。「ん?」というのは、そう言われて、あの小説に何が書かれていたのかを完全に忘れていることに気づいたからで、渋谷と秘密結社と映画館とプルトニウムと…くらいしか憶えていない。

 これでは良くないと思って、20年近く経過しているのだろうか、ともかく『インデヴィデュアル・プロジェクション』をキンドルで読み返してみた。感想は、といえば、物語との同時代性を差し引いても、これは驚くほど古ぼけていないのではないかということであって、少なくても、語り口の部分というか、ああいう持っていき方は書かれてからの時間の経過を全く感じさせない。

 もちろん、小説が問題としようとしていること、つまり、本当のことだと語り続けていくことによって、かえって語られていることが嘘に近づいていくというパラドクスや、語られることの真実性が外側からしか支えられないというパラドクスや、といった事柄については、小説の形式を考える上で大切なことではあるものの、今となっては、それほど重要視されないかもしれない。とはいえ、暴力的に物語が進められていく疾走感は、今もなおリアリティを持って感じられる。

 もっといえば、この小説は、半グレの犯罪記事を読んでいる時に感じるのと同じような当惑を私に抱かせる。オールドファッションの考え方であれば、何らかの深刻な結果を生じさせる行為の前には、何らかの思考過程があるはずだと推測するが、そのように考える者に対し、そんなものはない、とせせら笑いながら告げる、あの感じがあるし、この小説があの時期に指し示した方向に、私たちの社会は進んできたと言うことはできないだろうか、と作者と同時代を生きてきた者は言いたい衝動に駆られる。

 同時に、それにしても、と思うのは、もう、この小説に描かれている「渋谷」は何処にもないということだ。言うまでもなく、小説のなかの「渋谷」はあくまでも仮構のものであって、最初から最後まで、あのような街は存在しないということではあるのだが、しかし、90年代の半ばの時期には、渋谷は、ある角度からみれば、この小説に描かれるように、不穏な濁った熱を谷底に溜め込んだような土地であったのは確かで、例えば、そのことは、井田真木子の『ルポ14歳』によっても裏付けられる。そして、あの不穏な濁った熱は、他の土地に伝播していき、いつしか、あの街に固有のものではなくなったのであって、その意味で、あの小説に描かれる「渋谷」は「渋谷」という固有名詞で語られるものではなくなったということになる。あの時期のあの街は、不穏さだけを残して消滅したということになるのかもしれない。