逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.12.11 予定のない午後

 大阪には、12月13日までに行けばよいとされていた。

 その間だったら、いつでもいいと言われると、逆に、いつにして良いのか分からなくなったが、12月10日に決めたのは、12月11日の羊文学のライブのチケットを買ってしまっていたからだ。横浜の公演もあったのだから、そちらに行けばよいようにも思ったけれど、横浜から大阪に行くというのだから、大阪で見たほうがよいだろう。

 12月11日に起床して戸惑ったのは、15時30分に予定されていた羊文学のライブまで何の予定もないということだった。知らぬ街で何をして良いのか。見当もつかない。

 考えてみれば、居場所というのはそういうもので、予定がなくても、なんとなくの段取りのようなものと結びついて、良くも悪しくも、何をして良いかが分かるようになっている。家での用事を済まして、時間が空いたら、近所の本屋に行って、その後、ATMに寄って…と日常は続いていく。ところが、いったんそれと切り離されてみれば、もう何をしてよいのか分からない。そういうことなのかと思う。

 昼すぎにようやく出て、JRの大阪天満宮駅から福島駅にいく。そして、予定がない者の気楽さで、棋士村山聖が通っていたというガードレール下の食堂にいく。扉をひらくと、テーブルに焼き魚や魚の煮付けが並んでおり、テーブルから選ぶ仕組みなのかどうなのか分からないままに、空いているテーブルにつく。

 おばあさんに注文を聞かれ、野菜炒め定食をお願いする。つつがなく注文がとおる。後から入ってきた客の話を聞いていると、お魚料理はテーブルから取るという仕組みのようだった。

 競馬放送を聞きながら、野菜炒めを食べていると、背後の席でお客とおばあさんが話をしている。村山聖は味を薄めにするように求めることが多かったという話があった後に、もう閉じてしまう、という言葉が耳に入る。食堂は近々閉じてしまうようだ。食べ終わって出ると、たしかに、ガードレール下の店はこの食堂を残して閉店している。

 食べ終わっても予定がない。仕方がないので、中之島にラバーダックを見にいく。前日ニュースで知ったが、巨大なゴム製のアヒルのおもちゃが川に浮かんでいるという。それほど興味があるわけでもなかったのだが、ともかく予定がないということはそういうことで、大して興味がないことにも時間が割ける。それはそれで良い。そして、実際に見てみると、ラバーダックは確かに浮かんでおり巨大なのだが、それ以外の感想は何も思いつかない。ともかく、そういうものかと思って、ふたたび福島駅のほうに戻り、会場がある北浜のほうへとそのまま抜けていくことにする。

 福島駅のある雑然とした界隈から少しいくと、頭上に高速道路が行き交う通りに出て、すぐに整然とした街並に移る。ほんの十分ほどしか歩いていないにもかかわらず、ドラスティックに風景が変わっていくことに驚く。福島駅の煤けたような成り行きまかせの街並と北浜近辺の計算され尽くされた街並が肩を寄せあっている。

 羊文学の音楽を好きで聴いている。その音楽の中で指し示されている若者の痛々しいほどの切実さと楽観のことを思うと、これは若者のために準備されたものであり、私のための席は予約されていないという気がしている。せめてTENDERくらいにしておけよ、と思う。しかし、オルタナティブロックを聴いてきた人間としては、そうした後ろめたさを感じながらも、あのざらっとした音を無視するわけにもいかず、どうにも困っている。私は成熟や断念や寛容に向かうように努めてはいるものの、他方で、こうしたものを忘れることができない。恐らく、人は、十代のときに刻まれたものを一生抱えて生きていくのだろう。そんなことを「1999」を聴きながら考える。

 そうしてライブが終わってしまう。また予定がなくなってしまい、仕方がないので、もう一度、ラバーダックを見にいく。美しい橋を背景にして、夕暮れ時のラバーダックは、あいかわらず浮いている。やはり、どう考えてよいのか分からない。