逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2023.4.23 許された祈り

 ものごとには、明らかになるべき瞬間があって、だから、例えば、3月に京都を再訪し、君島大空を紫明会館で見たときのことは、今、記憶にあっても、おおよそタイミングが違うし、その時のことをうまく書けない。

 今書くことができ、そうしようと思うのは、その時に恵文社一乗寺店で買った『奈良へ』という漫画のことだ。町田康の筆圧が強すぎる推薦文が記された帯を見て、「そんなことを言っても、へへん!」くらいの気持ちで購入した。そして、私からすると、その筆圧の強さから想定されるような、がっと読んで、ぐっときた!という感じでぜんぜんなくて、むしろ、ゆっくりとコップに水が注ぎ込まれるように、静かな感慨に少しずつ満たされていくという印象ではあったのだけれど、どういえばいいのだろうか、地味な傑作だと思う。

 関東の人間なので、近鉄奈良線に乗るまでは、まったく知らなかったが、奈良というのは、関東でいうところの埼玉、群馬に近い。ヤンキーのガラパゴス感といえばよいのだろうか。進化の過程において、どこかで分岐点を間違えてしまったヤンキーがまだ存在しているという意味で、奈良は埼玉に似ている。

 私は、室生寺に行くときに近鉄奈良線に乗り、また、伊勢神宮から戻るときに近鉄奈良線に乗ったが、その2回という僅かな機会であったにもかかわらず、蛭子能収が酔っ払って描いたようなヤンキーに出会っているし、伊勢神宮から戻るときなどは、私と同世代の元ヤンキーといえば良いのだろうか、金髪のパンチパーマでベルサーチもどきのシルク(っぽい)シャツを着たおっさんにも出会っている。私の前の席に座った。昔のヤクザやんけ、とつぶやきたくなった。ヤクザは、近鉄奈良線に乗らないけれども。

 地政学的にいえば、近鉄奈良線は、関東でいうところの西武池袋線で、難波は池袋といえば、こうした事象は、関東の人間にも飲み込みやすくなるのではないかと思われる。と書きつつ、難波には、岸和田のだんじりの血と和歌山の漁師の血が流れ込んでいるので、なかなか複雑なのだが。

 いずれにせよ、関東の行き止まりの埼玉、その果ての群馬に対して、関西の行き止まりの奈良はとても似ているのだが、埼玉と奈良は大きく異なるところがあって、奈良には、東大寺法隆寺がある。埼玉には、それがない。その結果として、奈良には、祈りがあり、救いがある。埼玉には、救いがないということになる。いや、埼玉には、浦和レッズ大宮アルディージャはあるが、東大寺法隆寺に比べば、ねえ…いや、すみません…。

 大きく話が逸れてしまったけれど、『奈良へ』で描かれている奈良は、そのような文脈で捉えなければならない奈良であって、一方で行き止まりのどん詰まりでありつつ、しかし、その果てには、『凶悪』の群馬ではなく、東大寺があり、法隆寺があり、生きることの倦怠と虚しさが反転し、救いになる瞬間が待っている。しみじみとよい。

 若い人には、分かりにくいとは思うのだけれど、でも、そういうもんですわ。つまり、生きていれば、祈ることが許されるときがある。

 般若心経を聞きながら、ぜひ読んでもらいたいと思う。