逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.12.24 歓迎とサボテン

 翌日は雨だという予報だった。空を見上げると、まだ晴れていて、しかし、雨の予兆は、確かに感じられる。そういえば、大阪にやってきてから、一度も雨に降られていないと気づく。少しは歓迎されているのかもしれないと思う。根拠はない。グーグルマップを開いて、何処に行こうかと考える。東住吉区にある書店、本のお店スタントンが気になっていたことを思い出す。

 スタントン?

 何を指しているものなのか、よく分からないけれど、ひとまずはそこに向かうことが第一で、それでも何か物足りないと考える。天王寺駅から出ている路面電車に乗りたかったことをもうひとつ思い出す。地図を眺めていると、路面電車住吉駅までいき、住吉神社から長居競技場を抜けて、本のお店スタントンまでは、歩けなくはない。2つめが決まる。雨が降らないうちに部屋を出る。

 路面電車路面電車としての楽しさがあって、これを普通に使う生活というものはどういうものなのだろうと想像する。乗っている楽しさと街ですれ違う楽しさとが入り混じるかもしれない。でも、意外と不便に感じて、楽しくも何ともないのかもしれない。ただ、私は、気楽な私は、天王寺駅路面電車に乗り換え、路面電車に乗って、本当は一番前に立ちながら動画を撮りたいと思ったりもするけれど、生活をしている人に遠慮し気楽ではないふりをしつつ、つり革を掴んで、車に抜かれたり譲られたりする風景をぼんやりと眺める。住吉駅で降りると、私が乗ってきた車両はカーブして消える。

 鰻を焼いている匂いがする。どういうことなのかとグーグルマップでふたたび調べると、近くに鰻屋がある。そういえば、昼食をとっていないことを思い出す。鰻屋に入る。カウンターに座っていた中年の男にぎろりと顔を向けられ、少し躊躇する。そういう顔なのだろうと理解して、その隣に座る。見上げると、「鰻まむし代」として、「6百円」、「8百円」、「千円」、「千五百円」、「二千円」との値札が揺れていて、それ以外は何もない。どういう区別なのかは分からないものの、なんとなく察しはついて、「千五百円」を注文する。初めての店なのに「二千円」はないのではないかと遠慮しつつ、だからといって、鰻が物足りなかったという結末だけは避けようとした。背後では、煙で燻された店には似つかわしくない若者ふたりの男女がいて、でも、少し遠慮しているのか、小声で「ユニバ」の話をしている。大阪では、USJのことを「ユニバ」と略するということを大阪にやってきて初めて知った。

 鰻のご飯には、真っ茶色になるほど、たれがかけられていて、それで、まず驚き、その後にそれが全く甘くないことに驚き、さらに、鰻が香ばしく焼かれているだけのことに驚く。関東の鰻のように蒸されておらず、たれからは砂糖やみりんの味がしない。驚いたけれど、これはこれであり、というか、もしかしたら、数年後にこの味を懐かしく思い出すかもしれない。

 住吉神社には、人がまばらで、考えてみれば、今日はクリスマスイブだった。神社はもう、正月の準備に入っている。次の週末には年が終わる。境内をひとまわりする。その頃には、もう曇り空になっていて、予告された雨がやってこようとしている。住吉神社を出て、東へと向かう。住宅地がずっと続く。長屋がありたこ焼き屋がありコインランドリーがあり公園がある。ほとんど人通りはない。野球のユニフォームを着て自転車の籠に木製バットを入れた中年の男が通り過ぎていく。アーケードの商店街に出る。クリスマスソングが流れている。セレッソ大阪の選手たちを応援する垂れ幕がかかっている。私にとって、関西のサッカーチームといえば、セレッソ大阪が一番で、それは、選手たちの顔が多かれ少なかれ昭和の実録もののヤクザ映画に出てきそうな顔つきをしているからだった。柿谷選手だけがうまくはまらなかったのだが、昨年、名古屋グランパスに移籍した。

 そのままさらに東へと向かう。長居競技場が見てくる。私の勝手な憶測では、長居競技場はもっと古くて旧式のスタジアムだと思っていたのだが、実際に外から見てみると、ずいぶんと新しく映る。長居公園では、部活なのだろうか、ジャージを身に着けた学生たちがジョギングをしている。見上げると、すでに鉛色をした空。丸まった雀が葉をおとした小枝に身を寄せ合っている。

 本の店スタントンは、二筋三筋の入り組んだアーケードの駒川商店街の中にあった。通りには、古本の文庫がおかれていて、入るとすぐに絵本がおかれている。母親に連れられた小さな子どもが絵本を開いている。お客と店主が話をしている。奥には、名前がつけられた棚があり、正確なところはよくわからないが、個人が選んだであろうと思われる本が並んでいる。本を見繕っていると、毛糸の帽子をかぶったおばあさんが挨拶をして出ていく。『旅の断片』という、見かけたことがない装丁の見かけたことがない作家の本がある。開いてみると、旅のことが書かれている。それを買う。先ほどまで話し込んでいた店主がにっこりと微笑む。私は、歓迎されているのだろうか。もう一度、合理的な根拠はないと思い返す。それにしても、こういうときに、ぎこちなく笑みを浮かべるのではなく、一言二言話せればよいのだが、と思う。

 部屋にもどり、ひとりで本を開く。すぐに読み切ってしまうのがもったいないような気がして、少しずつ読み進める。そうして、数日後、ある文章に出会う。このような文章に出会えるということだから、私は歓迎されているのではないか。そこには、このように書かれている。

この数日間砂漠で見続けてきたサボテンのようになればいいのだ。砂漠の台地は暑く乾燥した小石混じりの赤土で、サボテンはその灼熱の大地で孤高に生きている。何者にも知られず、ただ黙然と立ちつくしている。もちろん彼らの内部では行き続けるために絶えず猛烈な努力が行われているのだが、それは外からうかがい知れないし、誰のためにしていることではない。あのサボテンのように生きればいいのだ。何者かになろうと思うことが間違っているのだ。サボテンを見ているとそう思う。サボテンのように孤高に生きて、そしてつまるところ死ぬのだ。何事かを残そう、なそうとしたところで、なににもならないのだ。しかしだからといって、なにもしなくてもいいということではない。なにもしなくても自分の気が済むわけでもない。生きているかぎり何事かをし続けなければならないし、生まれた以上は自分がよいと思う何事かをし続けるべきだが、それがなにかになると思わないことだ。自分ごときがすることなど、たいしたことではないのだ。自分がちょっとくらいなにかを作ったり、なにかをしたりすることが、なにかになるなんてことはないのだ。