逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.12月中旬 『眠りの航路』から伸びる根

 大阪に出発した頃に読みはじめたのは『眠りの航路』という台湾の作家の小説だった。一人称と三人称が交互に出てくる章立てになっていて、物語がはじまるとすぐに、一人称の語り手が不眠になってしまう。新しいベッドがからだに合わなかっただけといえば、そういうことに落ち着くのだが、その頃の私もまた、なかなか寝つくことができず、また、ようやく眠りについたとしても、何度も目を覚ました。それは、まるで一人称の語り手につきあっているかのようでもあった。

 物語の骨格は、一人称の語り手、恐らく、私と同世代の若者「ぼく」の不眠と回復の物語と、「ぼく」の父、つまり、植民地下の台湾に生まれ「三郎」という日本名を与えられ、大和市の高座海軍工廠に徴用されることになった少年の戦時下の物語で構成される。新聞や雑誌を読まなくなって何年も経っているため、この小説に対し、社会的にどのような評価がされているのかは分からないが、厳しい言い方をすれば、全体としては、この小説はうまく行っていないところもある。

 「ぼく」と「三郎」の物語だけでなく、ベッドの足の代わりに半生を過ごすことになる亀の「石」の物語や、高座海軍工廠にいたという平岡君(後の三島由紀夫)の物語や、花を咲かせ全てが死に絶えつつ地下茎で繋がってまた蘇ることになる竹の物語や、全てを救うことができずにただただ見つめ聴くことだけしかできない観音様の物語といった、それぞれの構成要素は思うようにうまく繋がっていかない。それぞれがあまりに魅力的なエピソードであるがゆえに、かえって、そうしたところが目立つ。

 そうした留保をつけつつ、やはり、この小説は魅力的だ。今述べたように、それぞれのエピソードが充実しており、特に、戦時下の物語の光景は詩的ですらある。地下茎は地中で少しずつ根を伸ばし、やがて知らぬうちに読者の土壌へと向かってくる。特に、先の戦争を引き起こした者たちを引き継ぐ者としては、そんな感覚を抱く。

 もちろん、物語の読み手としては、思いもよらないような形でそれぞれのピースが組み合わされ、大きな図が不意に浮上してくる、あの瞬間を待ちわびているところもなくはない。とはいえ、例えば、ピンチョンの『V』のような小説、そうしたものはそうあるものではなく、むしろ、ある意味、未整理な状態でおかれたそれぞれの充実したエピソードにまずは目を向け、それらが自分の中にどのように伸びていくのかを見極めるべきなのだと思う。

 なかでも、米軍の空襲のエピソードは印象的だ。B29からの語られる空襲と軍事工場の泥濘んだ地表から語られる空襲が交差する場面は鮮烈であって、もしかしたら、空襲はこのように語られたことはなかったのではないかと思い返す。

 空襲といえば、私は、野坂昭如の「火垂る墓」坂口安吾の「白痴」や堀田善衛の『方丈記私記』といった作品のことを思い出すが、『眠りの航路』を補助線としておくと、これらは全て地上からの見上げた、どこかしら、モノローグのような側面もあったことが見えてくる。言うまでもなく、これらもまた私達を深く抉るものであり、野坂や坂口や堀田やといった作家は、空襲の当事者であって、そのように見上げ、転がる焼死体を見つめたことはきわめて正当なことだったと、どこまでも言い切らなければならない。

 私が問題にしなければならないのは、それ以降のことであって、つまり、その記憶を引き継ぎつつ、私がどのように空襲を考えるのかということなのだろう。たしか、ゼーバルトの「空襲と文学」には何かが書かれていたはずだった。そういえば、今、私が暮らしているこの街もまた、空襲で壊滅的な被害を受けた土地であり、到着した日にホテルでみたNHKの番組によれば、淀川には、鎮魂碑があるという。それを見にいくべきだろうか。

 この作品の「空襲」を読みながら、そんな取り留めもないことを思う。小説から伸びた地下茎は私の中に根を伸ばし、私に何かを生じさせたということなのだろう。それぞれのエピソードが未整理であるがゆえに、『眠りの航路』は、かえってうまく根を伸ばすことができるということかもしれない。