逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.12.6 三省堂から遠く離れる

 大阪に旅立つ前、もう少し時間的な余裕があると思っていたのだが、実際には、予定がどんどんと埋まっていき、結局、時間のなさに閉口することになった。それでも、ほんの少しだけの時間が空いた。

     We can steal time just for one day.

 こういうと、この年齢にしては、自分は暇なのだから、人に叱られそうだが、ともかくも、あくまでも気分としては、私は時間を盗み出し、東京国立近代美術館に行くことした。「民芸の100年展」を見たかったからだ。本当は、東京都現代美術館の「ユージーン・スタジオ・新しい海」展と冨安由真が参加している六本木のグループ展「encounters in Parallel」も見たかったのだが、すでにかなりくたびれており、無理をして体調を崩すわけにもいかないので、我慢した。もっとも、東京ステーションギャラリーで開催している「小早川秋聲」展には行ってしまったので、結局、時間を盗むというのは、気分に寄りかかった表現ということになる。

 東京近代国立美術館までは、神保町で降りて歩いていくか、竹橋で降りて、逆に、帰り道に神保町まで歩くことが多い。今回は神保町で降りた。前年、つまり、感染症が蔓延していた時期の隙きをついて、私は、ピーター・ドイグ展に行ったが、あの日は、竹橋で降り、その後、神保町まで歩いた。あの時、神保町は静まりかえり、古書街には、唖然とするほどに人通りがなかった。私は、東京堂書店に寄ろうとしたが、閉まっていた。

 仕方がないので、その隣にあるとんかつ屋でとんかつを食べた。今考えてみると、書店が閉まっていることと、とんかつを食べることとの間には、何の関連性も認められないのだが、私としては、とんかつを食べるという行為の中に、ふて寝的な意味合いを見出していた。神保町があのような姿を見せたことに憮然としていた。

 そんな中、三省堂だけは開いていた。仕方ねえな…と思いながら、三省堂に入って、『真夜中の子供たち』を購入した。仕方ねえな…と思ったのは、三省堂は、旧来の大型書店であって、思いも寄らないような本に出会えるわけでもなく、ジュンク堂書店のような物量の圧があるわけでもなく…といった印象を持っていたからだった。いつからだろう。三省堂はいいや、ということを繰り返していた。

 とはいえ、私が初めて三省堂に連れて行かれたときの記憶は未だに鮮明に残っている。小学生の時、インテリ左派の母親に連れられ、岩波ホールで小難しい映画を見させられる前に立ち寄ったということだった。これほどまで多くの本があり、図書館と異なり、それらを全て買うことができるのかと驚いた。児童書のコーナーだったと思うが、左から右へと平積みの本をたどり、さらに書棚の一段一段を右から左へと辿った。それは永遠に続くかのようだった。あの時は『鏡の国のアリス』を買った。

 これと似た感覚は、youtubeAmazonが出てきた時にも持った。そして、それらによって、私をあれほど夢中にした大型書店が消えつつある。それを嘆くべきなのか、それとも、「そういうものだ」というべきなのかは、正直分からない。

 いずれにせよ、12月6日、三省堂のあの建物が2022年3月に建て替えになるとのことは知っていた。私が大阪に出発してしまえば、もう、この建物で本を買うことはできない。だから、何か記念になるようなものを、例えば、『不思議の国のアリス』を買うべきだろうかと考えた。

 しかし、私は先へと進みたい。だから、あの時、平積みにされていた『同志少女よ、敵を撃て』を買った。三省堂書店を出るとき、最後にあの建物を見上げた。そうして、国立近代美術館に向かった。