逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.1.10 我はなぜコーヒーに信仰のようなものを抱くに至ったか

 目が覚めると、太鼓の音が聞こえた。何なのだ、と思って、ベランダに出ると、大阪天満宮に人が多い。三賀日の大阪天満宮の人の出は、不動産屋から聞いていたものの、想像以上だった。警備員が出て、カラーコーンで導線が作られ、行列ができていた。

 その朝の人の出は、それほどでもないようではあったが、それでも多い。何なのだろうと思って、インターネットで調べると、その日は、十日戎だという。恵比寿様をお祭りして、商売繁盛を願うとの趣旨で、関西だとポピュラーだという。そんなこと、全く知らない。その頃にはすでに新たな感染爆発が予想されていて、だから、人混みの中に入っていくのは気が進まなかったものの、ずっとトントントントンと太鼓の音が部屋のなかに入り混じっているのを聞いていると、どうにも落ち着かない。太鼓の音を聞きながら、しばらく天井を眺めていたが、諦めて見にいくことにした。

 大阪天満宮の門には、つい一週間前までのお正月の飾りから一転して、笹に吊るされた恵比寿様や鯛や小判やといったにぎやかなお飾りが門に掲げられている。そして、どんどんと人々が中に吸い込まれていく。そこまでのお祭りだとは思わなかったので、私は、呆気にとられる。

 スピーカーからは、あの太鼓の音と共に「正月十日のえびっさん、商売繁盛、笹もってこい」という掛け声が延々と流れ続けている。ああ、太鼓はこれなのか、と納得する。それにしても、その掛け声はあまりに即物的過ぎるのではないかと苦笑する。しかし、同時に、この年齢になってみると、小さな神様を自分の切実な生活に結びつけ、何となしに寄り掛かること自体は悪くはないと感じる。そうすることによって、根を詰めた原理的な考えに囚われ生活を破壊するまでに至ることなく、不安や心配や苦悩をほんの少しでも押し返すことができるかも知れない。そうならば、それの何が悪い。そんなことを思う。

 昔であれば、そんな不純な!自らの身を焼き尽くしてこそ!みたいな無責任なことを思ったかもしれないが、むしろ、社会に寄りかかって生きている私としては、社会を支える人々の支えのことを軽々しく考えるべきではないように感じてしまう。少なくても、社会に残るものには残るなりの事情があり、それを軽く見るべきではないのだろう。

 境内では、おみくじ売り場が大々的に設けられるだけではなく、神楽が設えられ、若い女の子が神楽の上で神事用の着物(のようなもの)を身につけ、くるくると踊って、笹を授けている。さらに、猿回しまで現れている。いや、踊りや猿回しというのは、折口信夫的な意味合いで正しいのかもしれないし、そうでないのかもしれない。そういう素養がないので、わからないが、ともかく、ここまでのお祭りだとは思わなかった。

 もうひとつ歩いていくことができる距離に、恵比寿様を通年でフィーチャーしている堀川戎神社があることも知ったので、オミクロン株のことを忘れて、出来心でそちらも見にいくことにする。天神橋筋商店街をずっと歩いていくと、商店街が戎十日に支配されていて、「正月十日のえびっさん、商売繁盛で、笹もってこい」のテーマが止まることなく流れている。私ごときが文句をいうべきではないのは分かっているし、嫌ならば、太鼓の音に耐えながら部屋にいればよかったのだから、こう言うべきではないのは重々承知ではあるものの、それを聞いて歩いている間にだんだんと、こう、気が狂いそうになってくる。

 いや、文句は言ってはならない。そう念じながら、堀川戎神社の近くまでたどり着く。そして、凄まじい数の人と出店の数に圧倒される。神社の前には、百メートル近くの行列が出来ており、さらに、昨年のものと思しき枯れた笹をもった人々が神社のほうに向かっていく。商売繁盛の前には、オミクロン株などは恐れるに足りないとの心意気に心打たれなくもない。

 とはいえ、私は、その人混みに負けてしまう。もう、これは無理。遠目に堀川戎神社を眺めるだけにして、商店街に戻る。しかし、スピーカーからは「正月十日のえびっさん、商売繁盛で、笹もってこい」のテーマ。ふらふらになってしまう。もう本当に無理!本当にごめんなさい!と誰かに言いたくなるが、我慢する。

 ともかくも、逃げる。遁走する。天神橋筋六丁目の手前で路地に入る。古い家をそのまま使った喫茶店に入ると、ようやく、あの喧騒から逃れることができる。「正月十日のえびっさん」は、ここまでは追ってこない。静かな喫茶店では、古い振り子時計のチクタクという音と古いスピーカーから流れる誰かの枯れ葉が流れてくる。コーヒーを飲む。コーヒーに小さな信仰のようなものが芽生えることを感じる。