逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.1.8 歩く

 大阪市立美術館メトロポリタン美術館展では、カラヴァッジョの作品を見たいと思った。上野の国立西洋美術館で大規模なカラヴァッジョ展がやっていた時は、まったく興味がなかったのだけれど、3年前、北海道立近代美術館でカラヴァッジョの作品、もっといえば、「法悦のマグダラのマリア」をたまたま見ることがあり、びっくりした。

 それ以来、カラヴァッジョの作品があると知ると、ついつい見にいってしまう。あの時のような、何かあるのではないかという期待をして、今回も向かう。とはいえ、展覧会は「西洋絵画の500年」というタイトルのとおり、西洋絵画史をコンパクトに追えるような構成であり、ルネッサンスの直前のネーデルランドの絵画からはじまりセザンヌあたりで終わる。だから、カラヴァッジョの作品は1つ。残念ながら、作品自体に特に驚くということはなかった。ごく個人的なことをいうと、グルーズの「割れた卵」という作品が嬉しい。ディドロが口を極めて褒めていた作家で、今の時代を生きる私からすると、作品そのものは、ロココの作品と同様に、全く良いとは思わないのだが、「そうか、こういうものを見ていたのか」という楽しさがある。予定では、展覧会を見終えるのに1時間半くらいはかかるのではないかと思っていたのだけれど、これもまたごく個人的な感想であるが、19世紀以降の展示は退屈でほとんど見ないで出てきてしまい、結局、いつものように予定を見失う。

 四天王寺に行くことにする。そういえば、サントリー美術館四天王寺の展覧会が開催されていたんだよな、と思う。

 こういうことを言い出すとキリが無くなり、ついには、オカルトに到るという予感がしなくもないので、あまり深く考えないようにしているのだけれど、神社仏閣にも合う合わないがあって、妙に肌になじむようなところもあれば、どうも勢いがありすぎて胸焼けがするようなところもある。四天王寺は、明らかに前者だった。はじめて訪れたというのに、懐かしいというか、自分にあうことが分かる。もちろん、その由縁を深くは考えない。建物の配置は、本堂、金堂、五重塔が直線に並ぶ構成になっていて、この様式は古いな、と思う。京都というよりも奈良を思い出させる。法隆寺に近いのではないか。今調べると、四天王寺式伽藍配置とのことで、やはり古いもののようだった。廻廊の外では、蚤の市が開かれている。しっかり見ればよいのだろうけれど、私の今住む狭い部屋に持ち帰っても仕方がないとつまらないことを考えて、さらっと流し見だけに留める。古い薬瓶や大正や昭和初期の頃のものと思しき陶器が無造作に積み重ねられている。おばあさんが古着のコートを見比べている。お母さんに手を引かれた女の子が仁王像の前を通り過ぎる。池のなかでは、鯉がゆっくりと方向を変える。

 不意に空腹を感じて、何処かで食べようと思う。グーグルマップを取り出すと、行きたかった台湾屋台料理の店まで歩いて40分ほど。途中に行きたかった神社もあるので、そのまま歩くことにする。あの、大阪の真っ直ぐな街路をずっと歩く。高津宮という神社に立ち寄った後、ようやく辿り着く。しかし、シャッターが降りており、中国語の張り紙が書かれている。住所が示されていることからすると、移転したようだ。仕方がないので、さらに歩いていると、商店街が見える。商店街ならば、何かがあるのではないかと思って歩いていくと、お好み焼き屋が目につく。扉をひらくと、白い短髪のおじいさんがいる。目を合わせると、何も言わずに頷く。カウンターに座ると、ニッカウィスキーの瓶がおかれている。売り物ではなく、つい先程まで飲んでいたかのように見えるが、深いことは考えずに、豚玉とタコ野菜炒めを頼む。ラジオからはラグビーのラジオ放送が流れている。おじいさんは、全くしゃべらずにお好み焼きを作りはじめる。私は、ラジオの放送を聴く。ラグビーの試合をラジオで聞くのは初めてだった。ぼんやりとしていると、おじいさんが「マヨネーズはかけていいですか」と尋ねる。店に入って初めて声を聞いたことに気づく。

 食べ終え、ふたたび歩く。結局、そのまま土佐堀川まで歩く。四天王寺からずっと歩いてここまで来たことに気づく。自分はどういうつもりだったのだろうと思う。しかし、そもそも予定を見失っていたのだから、そういうものだと結論する。