逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.9.30-12.6 安心僕らは旅に出る計画


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 娘のことで学校に呼び出されたのは、9月30日のことだった。学校にいくと、校長と担任教師が校長室に座っていて、学業が不振で叱られた。親としては、謝るほかないので、謝ったけれど、担任教師が娘の心を削るような言葉を発していたのが気になった。

 いや、気になったというのは、嘘だ。私は腹を立てた。もちろん、大人なので、その場では、そんな感情は表に出さない。ただ、心の底で「クジラに食われて死んでしまえ」と呪詛の言葉を…。

 学校というのは、人を型に嵌めて、そこにうまく合わせられない人間を選別し、そこから外れた者に対し、自閉症スペクトラムやら多動性障害やらという言葉を(専門性がある医師でもないのに)貼り付けて排除するための場だということは知っている。経験的に知っている。年齢が年齢なのだから、今さら『監獄の誕生』や『狂気の歴史』を引き合いに出すのもどうかと思われるけれど、これらの本にも、同趣旨のことが書いてある。

 だから、学校には期待しておらず、できれば、一定レベルの授業をしてくれて、あとは、放っておいてくれれば、あとは、自分で自分なりにやっていくというつもりで生きてきたし、実際、それで何とかなってきた。

 娘についても、そうだろうと思って、ある意味、放置してくれることを期待して、よく分からないルールを押し付ける公立学校でなく、私立学校に入れてみたのだけれど、逆に、学業に対する縛りが厳しかったという、私としては、洒落にならないオチがついてしまった。娘に申し訳ない。

 世の中には、学ばないとならないことは膨大に存在していて、でも、自分が必要だと思えば、それほど時間をかけずに、必要なものは身につくものだし、そうした考えになった時には、人は強い。どこまでも行ける。

 学校の勉強についてもまた、そうで、学びたいと思うタイミングまで待つことが必要なのだろうと思う。そうしたタイミングを外して、「やれ、やれ」と言っても、もう中学生なのだから、自分の筋というものがあって、そこから外れることは不快なはずだ。でも、学校としては、コンスタントに結果を出して欲しいということなのだろう。「クジラに食われろ」と呪詛を言葉を飲み込んで、私は10代ではない大人なのだから、そこは理解しなければならない。しかし、娘の心を削るような言葉は、まったく意味をなさない。かえって、成績を出すという目的を阻害する。どういうことなのかと思った。

 そう、私は、かなり腹が立った。

 だから、まだそのタイミングにない娘には悪いとは思ったけれど、差し当たって、定期テストの成績をジャンプアップさせて、担任教師を黙らせるしかないと考えた。成績さえよければ、型に嵌った風に見せることができ、そうすれば、教師が放っておいてくれる。むろん、これは私の経験則だけに由来しており、そのあたりは、娘の預かり知らないことではあって、娘にしたら、とんだ不運というか不条理としか言いようがない事態ではあったとは思ったけれど、私としては、掟の門の門番になるしかないと決めた。

 そうしたわけで、私は、他の用事も含めての話しになるが、9月30日から11月30日まで伊丹空港羽田空港を5回往復し、娘に勉強を教えることにした。京都は紅葉の季節、私が大阪に滞在するのは、12月の終わりまで、という、このタイミングで、ここで過ごすことができる限られた生活を失うことについては、目を瞑ることにした。仕方がない。私にとって、娘は娘だ。

 11月の終わりの試験結果が出揃ったようで、今日、残念なことにまだクジラに食べられるに至っていない担任教師から、かなり成績が上がったとの連絡が入った。9月30日の面談時とは手のひらを返したかのような丁寧な対応。いや、まじ、ふざけんなよ、と思ったが、私は、大人なので、そういうことは言わない。クジラに食われて、吐き出されずに、1日で消化されてしまえ、とも言わない。

 いずれにせよ、これで、私は、安心して旅に出ることができる。

2006.11.10/2022.11.15 はじまりのつながりの行方


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 はい、続けて次回。

 昨日のことになるのだけれど、私としては、8年ほどの歳月をかけて辿り着いたところに、ひとまずのところ、辿り着いた。ワールドカップ2回分の歳月。長かった。

 そうして、夜、みんなでひと通り飲んだ後、梅田から歩いて帰ろうとしている途中、帰り道が同じ方向の若い友人といっしょに中之島の中央公会堂を歩いていた時、小学校で流れるようなチャイムが鳴って、「あーもう終わっちゃうねー」とお互いに頷きあい、最後に路上でお互いにそれぞれ煙草を吸って、「じゃあ、また」といって別れた。

 その時、ふと思い出したのがポラリスの「はじまりのつながり」という曲だった。恐らく、この曲が発表された時期は、ポラリスにとっては、とてもむずかしい時期だったはずで、というのは、2005年に坂田学が脱退し、2006年に出た新しいアルバム『空間』は、趣を変えて聴こえた。当時、「なんか違うよなー」と思ったのは否定しない。今聴くと、いいアルバムだとは思うけれど、ポラリスの大きな魅力であった陰りのようなものが少し足りないように感じた。とはいえ、このアルバムの「はじまりのつながり」は、その陰りを残しつつ、明るさもある、なにか新しいことのはじまりを告げるような曲だった。

 部屋にもどって、そうして思い出したことを確かめようと考え、深夜にスポティファイでポラリスを探してみると、驚くべきことに2006年11月10日のライブアルバムがあった。2007年に出ているとのことだったけれど、全然知らなかった。そう、私は、このライブに行っていて、それが行われたのが渋谷AXだった。

 当時、何をして良いのか、自分が何をしているのか、まったくよく分からなくなっていた時期だった。子がいないと、30代にはそういう時期が巡ってくる。そこで、子を持ってもいいし、持たなくてもいいとは思うけれど、いずれにせよ、あの頃、私はそういう時期に差し掛かっていた。あの時のポラリスと同じく、難しい時期だった。

 そうした宙ぶらりんを紛らわせるように、そして、渋谷AXがその頃住んでいた場所からとても行きやすかったこともあり、渋谷AXで何かがやっていれば、何となく行ってしまうということを繰り返していた。その一環として、というわけではないけれど、私は、ポラリスのこのライブに行った。そして、あの時、「はじまりのつながり」を聞いた。

 録音に残されていないけれど、このライブの最初の1曲目は演奏に失敗し、最初からもう一度やり直した。「今日、カメラが入っているのに!」とオオヤユウスケが言って、みんなが笑うということもあり、その日のライブのはじまりは賑やかだった。だから、逆に「はじまりのつながり」の、深い海の底で波に差し込んで揺れる光を眺めているかのような静かな演奏のことがかえって印象に残った。そして、なんとなく違うよな、と思っていたアルバムであったけれど、でも、まあ、これはこれでいいな、と思い直し、私は、冬のはじまりを感じさせる冷えて乾いて動かない空気を頬に感じながら、渋谷の街の坂を下ったのだった。

 あの時のあの演奏はもうそれで終わりだと思っていた。昨日、中央公会堂のチャイムを聴きながら思い出したときも、あの時のあの「はじまりのつながり」の演奏のことを考えてはいたのだけれど、あれはもう二度と戻ってこないものだよな、と思った。でも、そんなことはなかった。私は、あの時の演奏をふたたび聴くことができた。

 だから、というのは論理の飛躍以外の何ものでもないのだけれど、私と若い友人が「あーもう終わっちゃうねー」と頷きあったことがあるにしても、それはもうそれで終わりということではないのかも知れず、もう一度はじまって繋がるということもあるのだと、酔った頭で、そう思い直すことにした。

1988の頃、そして、2005の夏のこと


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 川﨑の武蔵小杉のことで思い出すのは、幹線道路と工場とフランチャイズのレストランと個性のない日当たりの悪い建売住宅と、私が暮らしていたような灰色の中古マンションのことで、私がサバービアの憂鬱という言葉を知る前から、あの頃、それはそこにはあった。あの頃というのは、1988年のことで、私は、東京の真ん中にある私立高校に川﨑から通いながら、しかし、生活の本拠はそうしたサバービアにあった。

 もちろん、渋谷は渋谷としてあって、その数年後には、渋谷系と呼ばれることになる音楽があの「渋谷」を彩ることになり、そうした物事とすれ違いはしたけれども、今考えると、私の構成物の中には、ひび割れたアスファルトの隙間を見つけては、サバービア的なものに根を伸ばし、そこから吸い上げたもののほうが多いように思う。

 とはいえ、ネコジャラシが芽を垂直に伸ばし、ナイフのような葉を地面から少し浮かし揺らしてみせるように、私は私なりにそこから離れた場所を求めていて、だから、あの時期、イギリスのマンチェスターで興隆を迎えようとしていた、いわゆるマンチェスタームーブメントのハッピー・マンデーズやストーンローゼスやといったバンドたちのことを知り、その音楽をなんとか聴こうとしたのだと思う(アメリカでいえば、ダイナソーJr.も、だ)。

 とはいえ、ネコジャラシは動けない。だから、私は、渋谷のタワーレコードで輸入盤を買うことがなくもなかったけれども、基本的には、自転車で行くことができる川﨑の元住吉にあるレコード屋や武蔵小杉の南武線沿いにあるレコード屋の日本盤を買うことが多くて、そこで手に入れることができないものだけを渋谷に行って買っていた。逆に言えば、どうして、あのようなサバービアの片隅の冴えないレコード店に、しかも、演歌のカセットテープの傍らに、ストーンローゼスやダイナソーJr.の新譜がおいてあったのか、今となっては不思議なのだけれども。

 マンチェスターではなく、リヴァプールのザ・ラーズのただ1枚だけのアルバムも南武線沿いのあのレコード屋で買った。そのことははっきり覚えている。つまり、私がいいたいのは、あの目のジャケットのことだ。それがしっかりと人の目につくようにおかれていた。あの冴えないレコード屋の店主はきちんと分かっていたのだと思う。

 それなのに、あのバンドはすぐにダメになってしまい、大勢としては、すぐに消えたかのように扱われた。私は、ただただ悲しかったのだけれど、それでも、主観的には、ただ1人で、大学に入っても仕事をはじめても、あのアルバムをずっと聴いていた。

 その頃にはもう30歳を超えていたけれど、2005年(確か、チャンピオンズリーグリバプールが優勝した年だ)になって、ザ・ラーズが再結成し、サマーソニックにやってきて、さらに単独で公演をすることになったことに驚いた。私以外には誰も聴いておらず、誰も思い出さないはずの、あのザ・ラーズがこの日本で単独公演をするということがよく飲み込めなかった。けれど、それは事実だった。

 私は、その公演を見ることができて、そのようなことが起こりうることに驚いたし、人の多さに驚いたし、あとで聞いたところによれば、私が見ていた2階席には、オアシスのメンバーが全員いたということにも驚いた。そして、トイレでは、ノエル・ギャラガーがいっしょに行った私の友人の隣で小便をしたということを聞き、もう言葉が出なかった。

 それからさらに時間が経ってしまった。今、スポティファイで見てみたら、「There she goes」の再生回数が1億回を超えていて、2005年のあの夏以来、ふたたび驚かされる。1億回もこの曲が流れたということであれば、それはもうずいぶんと昔のことを私は思い出していたということになるのだろう。

 ところで、私はザ・ラーズを見たのは、渋谷AXでの話だ。そして、最後に打ち明ければ、私は、渋谷AXとポラリスのことを書こうと思っていたのだが、そこからどんどんと頭のなかで繋がっていってしまい、そこまで辿り着けなかったので、続きは次回!

2022.11.5 そういうものか

 今更ですか、と言わないで欲しいが、カート・ヴォネガットジュニアの作品には「そういうものだ」という有名な台詞が多用される。この言葉のニュアンスは、作品全体に支えられ、その文脈ごとに様々な色彩を帯び、だから、「そういうものだ」はそういうものなのだ!と強弁するほかない。それを前提として付け加えれば、この言葉は、事実の酷薄さというか身も蓋もない場所で、わずかに残された抵抗の言葉として読めることが多いとも思う。

 今日、サッカーの配信を見ていた。

 私は、全く誇らしくはないのだけれど、川﨑出身で、しかも、等々力競技場の近くで育ったということもあり、川崎フロンターレというチームをこの20年くらい応援してきてしまった。

 こういうと、今となっては、我がチームがかなり強くなってしまったので、マウンティングというか、自分の先見の明を誇らしげに語る、みたいなニュアンスを帯びるところもあるかもしれない。それは否定しないが、それにしても、最初の5年くらいは、ひどい有様で、平日に試合を見に行くと、2万人の等々力競技場に1000人未満のことも多く、さらに、横浜FCとのアウェイの試合が日産スタジアムで開催された暁には、7万人のキャパシティがあるのに2000人しか入っておらず、ワンブロックに私と妻しかいないという試合も経験したことがある(とはいえ、その試合では、横浜FCの応援のためにジ・アルフィー(と言って分かってもらえるだろうか)がハーフタイムに演奏をしており、しかし、懐かしのエメルソンが大活躍して、川崎フロンターレが7ー0で勝ったという趣深い試合ではあった)。

 そう語りつつ、これは自虐的な自慢なのだと、そう解する余地は大いに認めるけれど、いずれにせよ、あの時期、スタジアムには、人がいなかったし、わけの分からない失点が多かったし(鬼木はバックパスばかりだったし、寺田は怪我ばかりだったし)、良くなってきたと思っても、ずっと2位とか準優勝だとかで優勝してくれないし、あの時代の愚痴を続けようと思えば、ずっと続く。今となっては、ニック・ホーンビィの『僕のプレミアライフ』的な「優勝」というオチがついたので、こう誇らしげにしているけれど、実際、黒歴史になりかねないというか、永劫回帰的に黒歴史が継続される可能性は十分にあった。人生には、どこに穴が空いているか分からない。

 この数年は、チームのスタイルが確立され強くなり、鼻歌気分で過ごしてきたけれど、今年はなかなかうまく行かず、結局、優勝は、横浜Fマリノスに決まってしまった。第三者的にいえば、今年のマリノスは強かったので、それが妥当なのだろう。

 それにしても、今日の試合は、本当に面白くて、先制した直後に、我がチームのキーパーが退場になり、後半すぐに追いつかれ、「これは無理ちゃうの」と思ったら、我チームに点が入り、しかし、すぐに同点にされ、「これは無理ちゃうの…ちゃうの…」と思ったところで、点が入り、なんとか勝った。すごい試合だった。そうなのだけれど、しかし、マリノスが優勝した。

 そうした時にふと出てきたのは、「そういうものだ」でなく、「そういうものか」という言葉で、こちらのほうは、少しだけポジティブなところを含んでいる。むろん、個人的には、という留保はつけるのだけれど、ここまでやってくれて優勝できなかったのだから、それはそうなのだ、という感じ。いや、でも、札幌戦がなあ…。

 

 

 

 

 

2022.10.22 ビートルズ解散私説

 そもそも恋愛という感じではないし、今となっては尚更なのに、若い男の子に急に呼び出され、「どうしましょうか…」と言われても、何も言えることはなくて、ただ、別れるのであれば、それを背負うしかないと伝える。

 ずいぶんと酔って部屋に戻ってきて、ビートルズの「Carry that weight」をふと聞きたくなる。そうして、あの曲の連なりを聞いているうちに、そういえば、ずいぶんと長きにわたって『ホワイトアルバム』を聴いていないと思い出して、「Back in The U.S.S.R」からしばらく聴きはじめて、「ああ、そういうことであれば、ビートルズ、解散するわ」と、そういうことだったのかと一人の部屋で納得する。

 私が言うまでもない当たり前のことなのかもしれないが、あのアルバムの中で、ポール・マッカートニーは、パロディに傾斜しているところがある。あれほど才能がある人なのだから、世界中が音楽に溢れる中、自分なりの形でいろいろなものをやってみたいという誘惑は当然のことだろう。その結果、「Back in the U.S.S.R」や「Ob-La-Di, Ob-La-da」にしても、「Helter Skelter」や「Rocky Raccoon」にしても、本歌取りになる。言うまでもなく、自分の音楽を模索していく上で、こうした本歌取りが極めて真摯なところから必要とされていたのは事実だろう。

 とはいえ、本歌取り本歌取りだ。そして、マッカトニーの真摯さは、徹頭徹尾本気のジョン・レノンからすれば、生ぬるく感じられたのではないか。レノンが悪ふざけをしたことがなかったというつもりはない。ただ、そうするにしても、レノンは、青筋を立てながらの、抜き差しならない居場所において、悪ふざけを行っていたのであって、そこから生み出されたものは、身を交わしようもなく、ジョン・レノンだった。

 これに対して、マッカートニーは、うまく身を交わす。引き受けることができないものは捨て、上手に消化できるものだけをピックアップする。そうして、「はい、こんなん、できましたけど」とスマートに差し出す。そして、間をおかずして、「知らんけど」と付け足す。こうした肩の力の抜け方は、ジョン・レノンの悪ふざけと一線を画している。『ホワイトアルバム』を聴いていると、如実にそのことを感じる。「ああ、それはもう、確かに無理だったな…」と思う。

 そうした状況下において、ジョージ・ハリスンは何をしているかといえば、眉間に皺を寄せて、浮世離れしたことを考えているし、リンゴ・スターは、マッカートニーにディスられて、落ち込んでいる。「それはもう、確かにダメだ…」と思う。

 知らんけど。

 ところで、アークティックモンキーズの新しいアルバム、素晴らしいですね。大人に憧れていた懐かしき時代を思い出す。


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