逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

1988の頃、そして、2005の夏のこと


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 川﨑の武蔵小杉のことで思い出すのは、幹線道路と工場とフランチャイズのレストランと個性のない日当たりの悪い建売住宅と、私が暮らしていたような灰色の中古マンションのことで、私がサバービアの憂鬱という言葉を知る前から、あの頃、それはそこにはあった。あの頃というのは、1988年のことで、私は、東京の真ん中にある私立高校に川﨑から通いながら、しかし、生活の本拠はそうしたサバービアにあった。

 もちろん、渋谷は渋谷としてあって、その数年後には、渋谷系と呼ばれることになる音楽があの「渋谷」を彩ることになり、そうした物事とすれ違いはしたけれども、今考えると、私の構成物の中には、ひび割れたアスファルトの隙間を見つけては、サバービア的なものに根を伸ばし、そこから吸い上げたもののほうが多いように思う。

 とはいえ、ネコジャラシが芽を垂直に伸ばし、ナイフのような葉を地面から少し浮かし揺らしてみせるように、私は私なりにそこから離れた場所を求めていて、だから、あの時期、イギリスのマンチェスターで興隆を迎えようとしていた、いわゆるマンチェスタームーブメントのハッピー・マンデーズやストーンローゼスやといったバンドたちのことを知り、その音楽をなんとか聴こうとしたのだと思う(アメリカでいえば、ダイナソーJr.も、だ)。

 とはいえ、ネコジャラシは動けない。だから、私は、渋谷のタワーレコードで輸入盤を買うことがなくもなかったけれども、基本的には、自転車で行くことができる川﨑の元住吉にあるレコード屋や武蔵小杉の南武線沿いにあるレコード屋の日本盤を買うことが多くて、そこで手に入れることができないものだけを渋谷に行って買っていた。逆に言えば、どうして、あのようなサバービアの片隅の冴えないレコード店に、しかも、演歌のカセットテープの傍らに、ストーンローゼスやダイナソーJr.の新譜がおいてあったのか、今となっては不思議なのだけれども。

 マンチェスターではなく、リヴァプールのザ・ラーズのただ1枚だけのアルバムも南武線沿いのあのレコード屋で買った。そのことははっきり覚えている。つまり、私がいいたいのは、あの目のジャケットのことだ。それがしっかりと人の目につくようにおかれていた。あの冴えないレコード屋の店主はきちんと分かっていたのだと思う。

 それなのに、あのバンドはすぐにダメになってしまい、大勢としては、すぐに消えたかのように扱われた。私は、ただただ悲しかったのだけれど、それでも、主観的には、ただ1人で、大学に入っても仕事をはじめても、あのアルバムをずっと聴いていた。

 その頃にはもう30歳を超えていたけれど、2005年(確か、チャンピオンズリーグリバプールが優勝した年だ)になって、ザ・ラーズが再結成し、サマーソニックにやってきて、さらに単独で公演をすることになったことに驚いた。私以外には誰も聴いておらず、誰も思い出さないはずの、あのザ・ラーズがこの日本で単独公演をするということがよく飲み込めなかった。けれど、それは事実だった。

 私は、その公演を見ることができて、そのようなことが起こりうることに驚いたし、人の多さに驚いたし、あとで聞いたところによれば、私が見ていた2階席には、オアシスのメンバーが全員いたということにも驚いた。そして、トイレでは、ノエル・ギャラガーがいっしょに行った私の友人の隣で小便をしたということを聞き、もう言葉が出なかった。

 それからさらに時間が経ってしまった。今、スポティファイで見てみたら、「There she goes」の再生回数が1億回を超えていて、2005年のあの夏以来、ふたたび驚かされる。1億回もこの曲が流れたということであれば、それはもうずいぶんと昔のことを私は思い出していたということになるのだろう。

 ところで、私はザ・ラーズを見たのは、渋谷AXでの話だ。そして、最後に打ち明ければ、私は、渋谷AXとポラリスのことを書こうと思っていたのだが、そこからどんどんと頭のなかで繋がっていってしまい、そこまで辿り着けなかったので、続きは次回!