逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2021.12.14 呼吸

 

   その日の最後の曲はクリスマスソングだった。

 大阪の千日前という街は、キタなのかミナミなのか、私には分からない。ただ、少なくても、私が住んでいるキタとは少し違った雰囲気が漂っていることは感じとれる。キタを彩っているイリュミネーションやそつなく磨かれたビル群はない。川崎で育った私としては、なんとなく相通じるものがありつつ、同時に、東京キネマ倶楽部鶯谷というか、未知な部分も残る。会場は、そうした街にある味園ユニバースの地下だった。昔はキャバレーとして使われていたという。

 新しい生活がはじまったばかりだから、その日の夜にそんな予定を入れてよいのかと迷うところもあった。しかし、横浜を離れる前にたまたま象眠舎がライブを行うという告知を見かけて、その日なら行けるじゃん、とあえて深く考えることなく、チケットをとった。

 新しい生活そのものが順調ではないということはない。むしろ、不満を抱くほうが誤っていると感じるほどであったが、それでも、なかなか物事に慣れようとしない悪いところがある私は調整中といったところだった。こちらのツマミを少し上げ、あちらのダイヤルを0.2メモリほど回す。さらにその上のスウィッチをオンにする。そんな神経を使うような作業を続けていた。軽い緊張をどこでどう解いてよいか、分からない。その日の夜もだから、吸った息の塊を抱えたように感じながら、地下鉄に乗り込んだ。

 会場の入り口でワンドリンク代を支払い、よれよれのチケットを受け取りながら気づいたのは、こうしたことを行ったのは久しぶりということだった。もちろん、羊文学のライブでもそうしていたはずだ。しかし、ビルボードライブは、私がかつて行っていた会場とは趣が違って、逆に、味園ユニバースはそれに似ていた。だから、そう感じたということなのだろう。

 いずれにせよ、急いで日中の用事を済まし、普段着に着替え、地下鉄に乗って、決して綺麗とはいえない埃っぽい会場の入り口で、ワンドリンク代を支払う。こうした手続は、実に久しぶりのことだった。もちろん、かつてとは異なり、マスクをしており検温が求められるという違いはあるのはあるけれど、しかし、それはそれとして、ともかくもここまではやってきた。

 まだ2つの会場でしかライブを見たことがないから、大阪では、と一般化してよいのかどうか分からないが、これらの会場では、言い訳のようにしか入っていない薄い酒ではなく、テキーラトニックにせよラムコークにせよ、ワンドリンクのドリンクなのに、くっきりと輪郭が分かるような酒が出される。そうした誠実さに驚きつつ、古ぼけたソファに腰を下ろす。音楽が始まるのを待つ。

 その日の音楽は、かっちりと何かが決まっているという感じではなく、いい意味で、おもちゃ箱をひっくり返したかのような、いや、クリスマスプレゼントの箱にぎっしりとおもちゃを詰め込んだような楽しさがあった。モノンクルの吉田沙良やAAAMYYYやTENDERや原田郁子やが次々と出てきて、小さな祝祭感を頬でしっかりと受け止める。会場に入ったときに感じていた吸った息の塊は、演奏がはじまってしばらくすると、もう感じることがなくなり、代わりに、からだが少し軽くなり、音にあわせて揺れていることに気づく。そうしてすぐにアンコールの時間になって、ずいぶんとしっかりと楽しんでいたくせに、もう終わりかと思う。

 その日の最後の曲はクリスマスソングだった。その日のゲスト全てが歌う。どういうわけか、小西遼の背後にいたトランペットの人が気になる。上手というのはもちろん。でも、そこではない。思う存分に息を吸い、これを吐き出し、空気を揺らす、という、その作業から目を離せなかった。

 長らく、我々は息を思う存分に吸って、これを吐き出すということを禁じられ、いつしか忘れそうになっていたようだ。けれど、音楽が鳴っているかぎり、決してそんなことはない。そういうことだったように思う。