逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2020.8.30 地下室の美術館

(2回目の大阪のことを書きながら、ヤン・ヴォー展のことを思い出した。とても素晴らしい展覧会だったのに、ほとんど誰も語っていないことを残念に思っていて、だから、あれは良かったんだよ、と誰かに伝えたいと再び感じた。1年以上遡ることになるけれど、あれを見たあとに書いたものをここに残しておきたい。)

 国際国立美術館は地下にあって、作品を見るために下っていく。どのような展示であっても、それ自体面白いことであるのは言うまでもない。川と川に囲まれた土地の裂け目に降りて、何かを見て、しばらくして、地上に戻る。もしかしたら、戻る時には、振り返ってはならないのかもしれない。古事記のことを思い出す。

 下へ下へと下降していったその先の、最後にふと空間が開かれる。ヤン・ヴォー展。部屋の中には、滞留した空気が漂っており、白熱灯に照らされた空間は薄暗い。がらんとした部屋には、断片となった石膏の像や椅子がおかれ、また、大写しの写真が飾られている。その先の部屋のがらんどうの空間には、コンテナのような木材で作られた小部屋が仮設され、中に入ると、壁にキッシンジャーの礼状やモノクロの写真が飾られている。その奥の部屋には、誰かと誰かの婚姻証明書が吊るされた壁がある。最初に渡された作品のタイトルを記した一枚の紙以外には、解説も手がかりもない。だから、部屋をめぐって物を見ても、ほとんど何も分からない。

 まったく思い当たりのない人から招待され、誰もいない大きな邸宅に迷い込み、ふとした好奇心からドアを開く。その部屋には、様々な物品が置き去りにされている。まるで遺品のような物たちをひとつひとつ眺めていく。そして、これは、いったい誰の部屋なのだと考え込む。最初はそのような経験だった。今、安易に「遺品」という言葉を用いたが、とはいえ、これは死者の部屋ではない。性的な気配が強すぎる。部屋の主の肖像を死や亡霊やといった言葉で切り取ることは許されない。それにしても、これは誰の部屋なのか。

 音声ガイドを聞くことにした発端は、そうした疑問だった。もっとも、その具体的な契機は、キッシンジャーの手紙が掲出されている作品だ。手紙には、演劇のチケットを準備してもらったことの謝意や演劇を見られなかったことへの謝罪が綴られている。日付はベトナム戦争の最中のもの。本物だろうか、偽物だろうか。これをどのように見ることができるのだろうか。音声ガイドを使って、もう一度、部屋を一周してみることにした。

 音声による説明によれば、作者は、南ベトナムから難民としてアメリカに渡った者とのことだ。

 会場は、全体としてみると、仕切りがなく、ゆるやかに繋がれているが、8つの部屋に分かれている。1つめの部屋には、赤地に大きな白いカリグラフィーが記載された壁があり、そこに腕のないアポロ像が吊るされている。ガイドによれば、カリグラフィーは、この作家の父親によって描かれたものであるという。次の部屋には、若い白人の男の写真とカリグラフィーが記載された幾枚もの紙を額装したもの、そして、薄く荒々しい塗装が施された鏡が掲げられている。甥との関係が示唆されているという。鏡には、見ている者の姿が映るようで映らない。カリグラフィーは父親が書いたものだろうか。

 私は気づかぬうちに順路を外れ、キッシンジャーの手紙が掲示された仮設のコンテナに入る。音声ガイド。文字通りといえば、良いのだろうか。手紙は、ベトナム戦争当時、キッシンジャーが演劇批評家にチケットを準備してもらった礼状だったことが明らかになる。ベトナム戦争の停戦交渉を進めていた時期であろうか。ベトナムカンボジア侵攻の時期であろうか。北爆の再開をしつつ停戦交渉を行い、パリ協定を締結する際の代表を務め、ノーベル平和賞を受賞した歴史上の人物の半私的な手紙が掲示されていたことを了解する。ヴォーは、これらの手紙をインターネットオークションで手に入れたようだ。

 次のコンテナに移る。ベトナムの若者たちが手を繋いだりお互いのからだに寄りかかったりする姿を撮影した写真が掲示されている。枯葉剤使用のための事前準備として、南ベトナムに派遣されたアメリカ人が1962年から1973年に撮影したものであり、仮設の小部屋の壁は、ベトナム戦争の時代に国防長官を務めたマクナマラの息子の別荘で用いられ廃材になったウォールナット材が用いられているという。

 ちょうど写真が掲示されている裏側には、その後処刑されることが予定されているフランス人宣教師の写真がおかれ、「バイバイ」とタイトルが付されている。次の部屋の壁面の手紙は、あのカフィグラフィーを用いてフランス語が記載されている。音声ガイドはない。読めるところだけを読んでみる。美しい庭のことが描写され、神のことが記載されているようだ。その後送られてきた図録によって、19世紀のフランス人宣教師が布教活動の禁止に従わなかったために竹の籠の中で足を繋がれ、首を切られるのを待っている際に、宣教師が父親に宛てて書いたものだと知る。

 部屋をめぐっていると、ところどころに解体された椅子の断片がおかれている。それ自体を眺めているかぎりにおいては、ただの木片とも受け取れるものであり、同じく石膏の塊にしか見えない状態のまま箱に詰められたり、身体の何処かが欠損したままに飾られる石膏の彫像の一部と、これらの椅子の断片は呼応するとだけ認識する。しかし、音声ガイドによれば、それらがケネディ政権の閣議室で用いられていたもの、つまり、ベトナムの命運を左右する歴史的決定の最中に使われていたことが明かされる。そして、サザビーズのオークションで入手されたという、その椅子に添えられたというジャクリーンの書簡もまた掲出される。

 最も奥の部屋から入口へと向かう。この作家の名前と知らぬ人の名前が書かれた婚姻証明書と離婚証明書が飾られている。音声ガイドによれば、彼が作品とするために結婚し離婚したことが語られる。

 アジアで処刑された宣教師たちの名前が刻まれた大理石を眺めた後に、もう一度、ケネディーの閣議室にあったという椅子の断片を通り過ぎる。次の部屋には、箱詰めにされたシャンデリアがおかれている。音声ガイドによれば、パリ和平協定が結ばれたホテルマジェスティックで用いられていたものだという。ホテルマジェスティックは、図録によれば、第二次世界大戦中にフランスが占領された際、ドイツ軍の司令部として用いられ、その後ユネスコの本部を経て、フランス外務省の管轄になり、1973年、ベトナムアメリカの和平の調印式がおこなわれた場となり、売却後、ヨーロッパで最初のペニンシュラホテルになった。

 そして、歩き方によっては、ということになるが、最後の部屋には、ヴォーの代表作であるという「我ら人民は」がおかれている。自由の女神で使われるのと同じだけの量の銅で作った女神像を解体し、250の断片になったものを様々な場所で展示するというプロジェクトの一部だ。像の断片は、イサム・ノグチのあかりに照らされている。

 こうして全ての部屋をめぐり終わる。それにしても、誰の部屋だったのか。何も知らずに歩いているかぎりでは、ものたちの中に断片的で意味づけを見出すことができなかったのだが、こうして繋ぐ時、ものたちは作家の物語を囁きはじめる。

 もっとも、語られるのは、ヴォーの物語だけではない。例えば、そこには、ベトナムから難民として逃れた父親の半生があり、美術作家として成功を収めたヴォーの半生と対比される。その上で、父親と息子の物語は、カリグラフィーを介して殉教者として処刑を待ちながら手紙を綴る宣教師とその父親の物語に重ねられる。

 これらで試みられているのは、私達の間で共有されている歴史を解体した上で、作家の文脈によって組み直すことだと私は考えた。

 閣議室にあった解体された椅子とオークションによって入手された国務長官の手紙と和平会議を照らしたシャンデリアは、この作者の父と子の関係や甥との関係、そして、シミュラークル婚姻や離婚といった個人的な歴史(明確に語られることはなく、私には分からなかったが、おそらく、そこには、作家の性愛を指し示す作品もあったのではないか)と同程度の比重しか有しない。どちらが主でどちらが従という関係にない。大文字の歴史の中に小文字の物語があるといったナショナルヒストリーでもなく、小文字の物語が大文字の歴史を語り直すという歴史修正小説でもない。小文字の物語が小声で囁かれるとき、必然的に同一平面上で入り混じるのが大文字の歴史の断片なのだ。反面、小文字の物語はそれ自体として分解され離散し組み直される。こうして、組み直された小文字の物語は大文字の歴史と同程度の大きさになる。結果、芸術家は、大文字と小文字の区別を無効とし、複数の物語を複数のままに束ね直してみせる。

 ヴォーが複数の物語をそのままに束ねて一気に見せきってしまうという、その力技は圧巻だ。

 例えば、枯葉剤のリサーチのために訪れた者が撮影したベトナムの若者の写真の裏に、アジアの専制政治の犠牲になった若者の肖像をおくことによって、アメリカとアジアのいずれにも帰属しない暴力そのものの痕跡を抽出する。そうした上で、これらの写真を現在ヴォー自身が友好な関係を結んでいるというマクナマラの息子が提供したウォールナット材で作られたコンテナの壁面の裏表に掲出する。

 ミシン台の上の出会いを超えてというべきなのだろうか。19世紀から20世紀にかけての植民地主義ないし帝国主義の時代、そして、ベトナム難民の子と国防長官の子が親交を結んでいる我らの時代が、同時に、しかし、複数のものとして凝縮され示されていた。