逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.6.24 夏至ちかくの千日前ユニバース


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 12月の半ばに象眠舎を見て以来ということになるので、冬至の頃から夏至の頃とひっくり返した時期になって、ふたたび千日前ユニバースに向かっていた。ネバーヤングビーチのライブを見るためだった。

 実をいえば、その週の月曜日に半径50センチメートルの距離で、お酒を一緒に飲みに行った人が新型コロナウィルスに感染していることが判明し、私は、急いでPCR検査を受けた。そうして、ライブの前日に陰性であるとの連絡が来て、なんとか、この日に間に合った。すれすれのタイミング。

 千日前ユニバースは、冬に来た時には、いかにも寒くて、暗かった。それに加えて、ミナミは治安が悪いと脅されていたものだから、私は、千日前の空気を少し硬く鋭く感じていた。今となってみれば、ミナミの治安の悪さは、池袋の治安が悪いといわれれば、そういうこともあるかもしれない、といった程度のものであり、そこまで構える必要もなかったのだが、その頃はまだ、そう感じていた。しかし、夏至の頃になってふたたび訪れてみれば、そこには、明るい西日に照らされた大阪の街があるだけであり、もっといえば、私は、その街に対し、人を弛緩させ、安堵させるような柔和な感触さえも覚えなくもなかった。

 ネバーヤングビーチは、本来的には、洗練された文化的素養が前提としてあるバンドなのだろうと思う。そうした文化的素養によって、自分たちの音をそのまま出すことを潔しとしないというか、照れ隠しといえばよいのであろうか、少しずらして聞かせようとするところがある。そうすることで、その音楽は複数の文脈で聞くことができ、よく練られ考えられたものになっていることは確かなのだが、そうした屈折や洗練は、すこーんと抜けるべきところを抜けきれないといった繊細さというか、悪く言えば、線の細さをもたらしているのではないかと感じられるところもあって、積極にも消極にも機能しうると思っていた。

 でも、その日のライブは、そうした印象を全く覆す強度を持っていて、ギターは気持ちよく鳴ればいいし、音楽は楽しければ、それでいいといったような、吹っ切れた感じがあり、「ああ、このバンドはこういう音を出せるバンドだったのか」と、びっくりした。もしかしたら、そこには、新型コロナ感染症によって抑えつけられてきた、何かが弾け、外に向かって押し寄せてくる音が含まれていたのかもしれないし、もちろん、ずいぶんと我慢させられてきた私たちのほうにしても、そうした音の濁流に飲み込まれ、もみくちゃにされることを期待して、その日を迎えていたのだから、それは願ったり叶ったりということでもあった。

 いつものように最後の曲がすぐにやってきて、柔らかく暖かな夜の空気を漂わせた千日前の街をふらついて、興味があった立ち飲み屋に寄って帰ろうかと思ったけれど、金曜日の夜のその店は、その時間にはもう一杯になっていた。