逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2011.03.19 凡庸な悪の風景

 あの頃はまだ、娘は2歳だった。生まれてすぐの夏に申し込んだ保育園からは、3歳までは受け入れるが、それ以降は他の保育園を探して欲しいと言われており、2歳の冬もまた認可保育園に申し込んだものの、第9希望まで認められなかった。法律では、希望があれば、地方自治体は全ての子を保育園に受入れなければならないという建前になっており、私も妻も働いており、3歳以降もそのままいることができる保育園への入園を切実に希望し、そして、1年待った。しかし、そのような結果になった。私たちはがっかりした。妻はかなり憤慨し、2次募集の申し込み用紙の裏側までぎっしりと自分たちが保育園を必要としている理由を記載した。私は、そうは言っても、望みは薄いだろうと考えていた。

 3月15日、原子力発電所の屋根が吹き飛ばされる映像が流れた。事態が悪くなっているのは明白だった。NHKのニュースでは、原子力の専門家である東京大学の教授が「メルトダウンは起こっていないはずだ」と断言していた。様々な関係性に絡め取られ、木偶の坊のように、白々しい嘘を全国に向けて伝えなければならないというのは、何とも哀れなことだ。専門家であれば、自分の語っていることが誤りであるか、その可能性があることは認識していたはずであり、そうであるにもかかわらず、その言葉に淀みはなかった。嘘かもしれないと考えながら、嘘を述べるのは最悪な気分でなかっただろか。

 今、あの教授はどうしているのだろうか。あれをそのまま報道した者たちはどうしているのだろうか。あの時、メルトダウンが起こっていたことは歴史的な事実として確認されている。あのような出鱈目な報道をしたことを恥じているのだろうか。どうしようもなかったと、自分が誤ったことをしたことから目を背け、かけがえのないその人自身の良心を自分の手で汚しているのだろうか。もちろん、同情するところはある。しかし、それはそれとして、あの風景は凡庸な悪としか形容をするほかないことであった。私は忘れることができない。

 計画停電が開始され、街は暗かった。その日もまた、列車の電灯は落とされていた。それでも、私はそれ以前と変わらない生活を送っていた。仕事で東海道線に乗って、横浜駅で乗り換える時、妻から携帯電話に連絡があった。驚いて電話を取ると、2次募集で認可保育園に入ることが決まったという。良いニュースだった。週末に見学にいくことになった。

 関東の春は晴れと雨を繰り返す。金曜日に雨が降った。そして、土曜日に晴れた。私たちは、昼過ぎにベビーカーを押して保育園を訪れた。前日の雨でアスファルトが黒く濡れており、春の柔らかな日差しに照らされ、きらきらと光っていた。娘は、ベビーカーに乗って、薬局でもらったオレンジ色の象の指人形をいじっていた。

 後に明らかになったことであるが、あの週、関東の上空には、放射性プルームが漂っており、金曜日にかけての雨によって、関東の放射線量は飛躍的に高いものになった。もちろん、それが直接的に娘の身体に影響を与えるものでなかったのは事実ではある。けれど、私たちには、何の情報も与えられなかった。あの日、外出してよいのか、それとも控えればよいのか、天気予報ほどの情報も与えられることがなかった。

 専門家やジャーナリストは、何も問題はないと述べるか、そうでなければ、「放射能くる」とセンセーショナルな見出しをつけて何の役に立たない与太話を作り出すかのいずれかだった。私は、そのことも忘れることができない。あのような凡庸な悪の風景を忘れることができない。