逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2020.9.13/2022.1月上旬 ホホホ座の夏

 残暑の京都の暑さは、私の身体には、それほど辛くなかったけれど、娘には、かなり厳しかったようだった。だから、夏の旅の最終日は、一乗寺から歩いて、圓光寺と詩仙院を訪れた後には、娘は、「もう、ぜったい歩かない」と言った。仕方がないので、恵文社書店まで行って、冷房が効いた店内で、しばらく本を見繕い、その後、どうしようかということになった。

 じゃあ、「ホホホ座」という奇妙な名前の書店に行こうか、ということになった。その頃はまだ京都の地理のことがよく分かっていないこともあったし、ともかく、娘はもう歩かないと強気の態度で、こちらとしても、前日に好きに連れ回して、ずいぶんとくたびれさせてしまったのではないかという後ろめたさがあったから、出町柳駅まで電車で行って、そこからタクシーに乗るということになった。

 タクシー運転手に「ホホホ座」と伝えても分からないようだったし、もちろん、私も見当もつかない。けれど、とりあえず、浄土寺郵便局の角を曲がって、しばらく行ったところ、と伝えたら、交差点は分かったようで、運転手のおじいさんは「じゃ、行ってみますか」と言った。

 京都のタクシー運転手は、私が利用したかぎりでは、おしゃべりな人が多い。その人も、京都大学の前を通り過ぎる時に「京都は学生の街ですから、むちゃくちゃ学生がおるんで」と言ったり、浄土寺郵便局の角を曲がる手前で、どちらに曲がるかと聞かれて、私が「下がるって、言うんですかね…あの、その…三十三間堂のほう、というか…」と口ごもっていると、笑いながら「分かりましたわ。上がる、下がる、出る、入る、ですわ。関東の人には難しいでしょ。そういえば、この前、歌舞伎役者を乗せていたら、上がると言っていて、間違っているけど、もうええわ、と思って、そのままにしてたんですわ。」などと会話が止まない。

 白川通りをそのまましばらく行った、このあたり、かな、というところで、タクシーを降りた。妻がまた歩くのかとうんざりした顔をした娘の手を引っ張って歩く。私は、その少し前を歩いて少し行くと、ホホホ座浄土店があった。恵文社一乗寺店のような本屋然とした佇まいではなく、ガレージのような、物置のような、といえば良いのだろうか、そうした店だった。柱には、納豆が入荷するとの手書きの告知がされており、米屋?と戸惑ったものの、店内には、確かに、本がおいてあるようだったから、ここで良いのだろうと結論した。

 店内は、本屋、というよりも、本やらTシャツやらシールやらCDやらがおかれている(告知からすれば、ついでに納豆も売られているようだった)、どう形容したら良いのかよく分からない構えになっている。そういうと、ヴィレッジヴァンガードのようなお店を思い出すかもしれないが、どういうわけか、それとは違う印象がある。残暑の厳しい時期に訪れたためなのか、真夏昼間のスペインのバルに漂っているような、気だるさと同時に森閑とした空気が漂っている。その空間は、ホホホ座としか言いようがないのかもしれなかった。

 レジの前では、店員に対し、客の女の子が悩みのような、単に若者らしい孤独感から誰かに話を聞いてもらいたいだけのような、輪郭が定まらない言葉を囁くように投げかけ、薄暗がりの中で、店員は相槌を打っている。まるでバルのようだな、とふたたび思う。硝子のようにくっきりと冷えたシェリー酒を飲みたくなる。

 娘にとっては好都合なことに、店内には、しっかりと冷房が効いていて、汗が引いていく。我々は別れて本を選ぶ。すでに恵文社でずいぶんと買った後だったけれど、それでも、幸いなことに本は尽きない。それが本の良いところだと思う。私は『国道3号線:抵抗の民衆史』という本を書い、娘は『ドラえもん』の1〜3巻を買う。何でだろう、と思うものの、自分も人のことを言えたものではないので、まとめて会計をする。店員は「おおきに」という。その頃には、もう、私達はお腹が減っていて、店を出て、ほんの少し歩いたところにある「青にぎり」という、おにぎり屋に入って、おにぎりを食べた。

 1月上旬にあの夏の午後のことを思い出したのは、『がけ書房の頃』という本を読んだからで、いや、思い出すも何もなく、がけ書房はホホホ座の前身となった本屋で、この本には、筆者がその書店を立ち上げる前に京都から川崎や横浜に家出をしたことから、書店を開き、そして、終わり、新たにホホホ座が立ち上がるまでのことが書かれている。ずいぶんと有名だった書店だったようで、がけ書房にも行っておきたかったと思うけれど、その頃はまだ京都のことなど全く考えたこともなったものだから、そういうものだというほかない。

 中には、私が仕事で歩いていた頃の川崎や横浜の三ツ境のことや、そうでなければ、小沢健二ががけ書房に援助しようとしていたことや、自分にひっかかるところもあり、それは楽しく読んだが、それ以上にこの本の美質は、自分で店をやるということがどういうことかがしっかりと具体的に書かれている部分だった。街で稼ぐ、というのは、どういうことなのか、ということが淡々と、しかし、体感に基づいて正確に記載されている。目線が高すぎもせず低すぎもしない。街の人というのは、或いは、そんな風に世界を眺めているのかもしれないと、そんなことを思った。