逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.6.25 蓮の花の咲く前に

 もう夏もここまで来てしまったけれど、6月の終わりに京都に行ったことを思い出していて、その頃はまだ、今ほどは騒がしくはなく、時間があったということもあって、休日に何をしようかと考える余裕もあった。その日は、東福寺で蓮が咲いているとツイッターで知って、東福寺を訪れたのだった。

 東福寺は好きなお寺のひとつで、もちろん、あの、もみじや、重森三玲の庭園という魅力もあるけれど、がらんとした雰囲気が気に入っている。がらんといえば、東寺もがらんとしている。けれど、真言宗のお寺はいかついところがある。私は、東寺の立体曼荼羅は唯一無二といえば良いのだろうか、あのかっこよさにやられている1人ではあるけれど、それにしても、東寺には、ぴんと張り詰めたところがある。それに対して、東福寺は、禅寺ということも関係しているのだろうか、逆に、抜けるところはできる限り抜くべきというポリシーが感じられなくもなく、人を楽にする。

 話が逸れたが、そうした気に入ったお寺に蓮が咲いているということを聞けば、たぶん、山門の前のあの池ではないかと考え、いつも蓮の葉ばかりになっている池を見てきた者としては、ついつい気になってしまう。そう考えて訪れたのだけれど、しかし、実際には、全く咲いていなかった。まだ蕾は固く、蓮の葉がゆらゆらと風に揺れているだけの、あの池があるだけだった(それにしても、あのツイートは何だったのか?)。

 今は、蓮というのは、7月から8月のこの時期に咲くものだという知識はあるのだが、というのは、その後、東寺や東本願寺(の裏にあるブライアン・イーノ展の会場)に行った際、お堀で蓮が見事に咲いているのを知ったからではあるけれど、いずれにしても、その頃はまだ蓮の時期ではなかった。

 私は、がっかりしてというほどではないものの、急に手持ち無沙汰になってしまい、仕方がないので、東福寺に来るときの常として、光明院の重森三玲の庭園を少し見た。そこには、雲海の上に鋭い岩が無数に放射状に顔を出しているかのような風景があり、菊地成孔の言葉を借りれば、「エッジの効いた」庭園といってよいと思う。

 手前に池や白砂やをおいて、蓬来山が中央に控えて、といった安定感のある庭園ももちろん悪くはない。しかし、光明院の庭は、雲海が波打つような不安定なベースに尖った石を無数におき、しかし、それを放射状に配置することで秩序を生じさせるという、なんとも革新的な庭であって、たしかにエッジが効いている。そうしたところで、私は、この庭に勝手に感心しているのだけれど、それはそれとして、何しろ、ここがいいのは、だいたい人がいないところで、平日に行くと、もう誰もいない(ことが多い)ので、結局、この庭の緊張感にかかわらず、私は、その日のように手持ち無沙汰になったり、ぼんやりするために、光明院のお庭を訪れる。

 その日もまた、しばらくそうしてぼんやりして、それにしても、その頃は、桔梗の季節であって、ああ、こんなところに桔梗が植えられていたのかと発見するなどして、しかし、このあと、どうしたものなのか、と考える。大阪から京都まで来て、これで帰るのも悪くはないけれど、それはもったいない。

 結局、東福寺からそのまま京都市営地下鉄七条駅まで歩いて地下鉄に乗り、四条駅で降りて、インディアゲートでビリアニを食べることにする。4月に妻と娘が京都にやってきた時、妻がインディアゲートのビリアニをひどく食べたがっていたのだが、最終日の新幹線の時間が迫っている中、人が並んでいて、結局、諦めることになったのだった。そのことを思い出し、若干の後ろめたさを感じつつ、同時に、鯛出汁のビリアニは、さすがにここでしか食べられないだろうと優越感を覚えながら食べる。

 食べ終えても、まだ昼過ぎ。さらにどうしようかと考え、あまり考えずに北のほうに歩いていき、大垣書店に入って、文庫本を書い、それでもどうしようかと考え、スマートコーヒーまで行って考えることにする。スマートコーヒーまで歩く。すると、疲れてしまい、気づくと、コーヒーを飲みながら、プリンを食べている。

 プリンを食べ終え、さて、どうするかと考え、そういえば、最近、鴨川を見ていないと思って、鴨川まで歩いていく。その日の京都は街全体にクチナシの香りが漂っていて、ああ、この時期はこういう香りがするのかと感心しながら、鴨川までくると、少し歩いて見たくなり、そのまま川沿いを歩いていく。気づくと、神宮丸太町駅の近くにいることに気づき、ここまで来たのであれば、と考えて、誠光社に立ち寄って、本を買う。そうして、さらに鴨川の河川敷を歩いて、出町柳まで行く。ここまでして、何となく満足して、京阪線に乗って大阪に戻ることにする。京都は、そういうものなのか、となんとなく納得する。