逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2011.3.11 あの日のこと

 あの日、地震が起きてすぐに職場を出たのは、娘が生まれた時に決めていたことだった。災害があれば、何があろうと、娘を優先すると決めていた。神戸大震災の時、他の人を助けていて、娘を助けに行くのが遅れた、それで娘を失ったというわけではないけれど、最初に娘を助けに行かなかったことをずっと悔やんでいると、そう語っていた人のことを記憶していたからだと思う。私にその人の気持ちが分かるわけがないが、しかし、その言葉には、私の何処かを深く抉るところがあった。

 私は慌てて、だから、家の鍵が入ったコートを忘れて職場を出たことに後で気づくことになるのだが、最寄り駅に向かった。その頃にはもう、列車は全て止まっていた。仕方がないので、早足で保育園に向かうことにした。早足で歩いても、2時間程度はかかる。しかし、それ以外はないだろう。そう直感した。

 そうした直感は、しかし、外れた。歩いて15分ほどしたところで、ぐでんぐでんに酔っ払った男を車内から出そうとしているタクシー運転手を見かけたのだった。金曜日の午後3時半過ぎに、どうして、あのような酔っぱらいがタクシーに乗って、しかも、あのような場所で降ろされようとしていたのかは、今考えると、不思議ではあるけれど、いずれにせよ、私は、タクシー運転手に手を貸し、酔っぱらいを車内から出し、酔っぱらいが金を払い、そうして、軟体動物のようになりながら、なんとか目の前の家にたどり着いたのを確認すると、次は、私を保育園に連れて行って欲しいと運転手に頼んだ。もちろん、運転手は拒まなかった。

 タイミングが良かったと後で思い出すことになったが、その頃はまだ、幹線道路の渋滞が始まっていなかった。4時を少し過ぎた頃だったかと思うが、ラジオからは10メートルの津波が押し寄せているという信じがたい言葉が耳に入った。タクシーが橋に差し掛かったところで余震がやってきて、車内でも大きな揺れが感じられた。私は、自分が保育園にたどり着けないかもしれないことに怯えた。

 しかし、渋滞に巻き込まれることもなく、つまり、あの時、あの状況において、奇跡的なことに、タクシーに乗って40分ほどで保育園に到着した。保育園の先生には、私が一番乗りだと言われた。照れるほどに早い。この時間にもう父親がやってきたことに不審げな顔をして、娘は私を見上げた。

 私があのタクシーを待たせていたのは、家の鍵を入れたコートを職場においてきてしまったことに気づき、妻が帰宅するまで自分の実家で待つことにしたからだった。ベビーカーを受け取り、建物の外に出ると、夕日の色に薄く染められた曇天からぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。見慣れているはずの光景が何処かで大きく歪んでしまったかのようだった。

 5時前になっていた。つい先ほどまでは流れていたはずの幹線道路が渋滞していた。タクシーが動こうにも動けない状況に巻き込まれた。隣町だというのに、実家までに辿り着くのに恐ろしいほどの時間がかかった。実家では、ドアを開け放ったまま、母親がダイニングテーブルの前に座っていた。私と娘を見て、驚いた顔をしてすぐに笑顔になった。心配していたと述べた。私は鍵を職場に忘れたので、妻が帰宅するまで待たせて欲しいと伝えた。テレビに信じがたい光景が映っていた。

 結局、妻が帰宅したのはその翌朝のことだった。それまでずっと戸惑った表情で過ごしていた娘は、妻の顔を見ると、泣き出した。