逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.4.1-3 それぞれの街のそれぞれの桜

 大阪にやってきたのが冬で、月に1回ほどは、京都に行って戻るという生活を送っていたからなお一層そう感じたのかもしれなけれど、桜がちょうど満開の時期に家族と京都を訪れてみると、街は急に装いを変えて、よそ行きの佇まいといえば良いのだろうか、祝祭感に溢れていて、こういうことか…と驚いた。

 私は、一時的にやってきて、また去っていく観光客に過ぎず、この街に住む人が感じるのとは違うのだろうけれど、それにしても、冬の京都はひっそりとして、今までも何もなかったし、これからも何もないだろうという諦観のようなものさえも感じさせるところがあり、それはそれで全く悪くなかった。それにしても、桜が咲くと、一気に雰囲気を変え、そうだったのか、京都、と思う。

 もちろん、そうした印象は、たぶんに家族がやってきて、その上、嬉しいことに友人の家族もやってきて、という、いささか孤独でくすんだ日々を送っていた者にしては、プラスアルファにプラスアルファを重ねたかのような事情も影響していたのだろう。

 とはいえ、何処を見上げても桜、桜、桜という街の彩りや、行き交う人々の多さや声の大きさに驚かされる。そういうことだったのかと改めて思う。

 翻って、大阪はどうだったかといえば、何があっても騒がしく、人が多く、へこたれない街であって、新型コロナウィルスが蔓延しようが、桜が咲こうが、構うものか、いてまえ、といった感じがあった。

 土佐川沿いの桜並木の下を歩いてみても、いつものように騒がしい。「君たち、桜、関係ないでしょ」と言いたくなるところもあるし、季節感がないといえば、そうなのかもしれないけれど、しかし、あれほど感染者数が増加し医療崩壊を起こしていた時期であっても、立ち飲み屋に人が溢れ、街中では、大声で言葉を交わしていた人々は、桜の下でも変わらずに、ビールをどんどんと飲み干し、騒ぎ立て、店に列を作る。

 合う合わないというのは否定しないし、私もまた疲れることがないとは言わないが、しかし、こうした恒常的にテンションが高く、ひどいことが起こっていても、ともかく、大きな声を出して笑わずにいられない人々の姿は、それはそれで悪くないし、部外者が勝手なことをいうのを許してほしいと思うが、大阪には、そうした根の良さというか、あっけらかんとしたところがあると思う。

 こうして、京都と大阪を並べてみて、自分が横浜でどんな風に桜を見上げていたのかと思い返すものの、よく分からない。「ああ、桜が咲いたな」と思いながら、仕事に行って帰ってくるということを繰り返していたようにも思うし、そういえば、井の頭公園で大阪的に浮かれていたこともあるように思うけれど、しかし、そうは言っても、それはそれ、これはこれというところを残していたようにも思うし、本当によく分からない。

 来年の春には、京都にも大阪にもいないと思うと、少し寂しく思うのは確かであるけれど、しかし、まあ、戻ってこようと思えば、いつでも戻ってこれる。