逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.2.3 旅の終わり、小説の続き

 もう10年以上、いや、それ以上ずっと前になるものだから、ゼーバルト・コレクションを読みはじめた頃のことは、正確には憶えていない。『移民たち』からだったのか、それとも『空襲と文学』からだったのかも憶えていない。ただ、私は、小説に読み慣れていた私は、これは何というものなのだろうと考えていたのではないかと思う。

 もちろん、フィクションなのだろうと思ったが、それは作られたという意味で、フィクションなのであって、実のところ、ゼーバルトが書いたものの位相においてしまうと、あらゆる書物はフィクションへと溶解していき、つまり、虚実の膜は消失してしまう。

 似ていると思ったのは、ブルース・チャトウィンの『パタゴニア』であったけれど、それにしても、チャトウィンは、ある部分では、そうした境のことを逆手に取って満面の笑みを浮かべているようなところもあり、もしかしたら、そこにチャトウィンの子供っぽさを感じる人もいるかもしれないが、いずれにせよ、その軸に沿って読んでいけば、落ち着きはよかった。そう、ミッシェル・フーコーの『言葉と物』もあった。しかし、それにしても、ボルヘスの小説と並べれば、戸惑うということはなく、つまり、フーコーは、手続的なところでは折り目が正しく清潔であって、歴史と文学の侵犯を許そうとしない律儀さがあったのではないかと思う。

 そうして、あの頃、ゼーバルトを読んで、どのように読んでよいのかと当惑したのではないかと思うが、結局、あれから時間が経っても、未だによく分からない。

 もし、あの頃、『アウステルリッツ』を読んでいれば、どのように考えたのだろうと思う。あの頃、これだけは読まずに、そのままに10年以上の時間が経ってしまった。いつでも読めるように思って入手しないで済ましていたら、絶版になってしまい、気づくと、古本は1万円以上の値をつけていた。今となっては、あれだけ勧めてくれた友人がいたというのに、なぜ、手に取ろうとしなかったのかは分からないが、時として、そういうすれ違いはある。そうして歳を重ねる間に『アウステルリッツ』が再び手に入るようになって、私は、ともかくも勢い込んで入手したのは良かったのだけれど、それでもまだ、怠惰な私は読もうとしなかった。しばらくの間、私は、ゼーバルトを読める時期に足を踏み入れることがなかった。

 それでも、ずっと気にはかかっていて、例えば、竹富島に持っていき、結局読まずに帰り、そうでなければ、伊豆に持っていて、それでも読まずに本棚に戻すということを繰り返した。この本はどれだけの距離を移動したのだろう。そうして、大阪にやってくる時にも、専門書で膨らんだ段ボール箱の片隅に『アウステルリッツ』を入れてやってきたのだった。あるところでは、そのまま横浜に持ち帰り、今回もまた旅をさせて終わるということになるのではないかと、私は諦めていた。しかし、その時は不意に訪れた。ふたたび眠れない夜がやってきて、段ボールの中で眠っている『アウステルリッツ』のことを思い出した。そうして、読みはじめたのだった。

 『アウステルリッツ』には、分裂したところがある。前半部分の緩やかな、グラーヴェといえば良いのだろうか、『移民たち』等の他の作品に似たところと、唐突に速度を上げ、最後まで一気に突き進むところ。その2つの断層は、アウステルリッツの起源が不意に現れるところに走っている。言うまでもなく、後半部分は前半部分で周到に準備されたものではあるけれど、しかし、後半部分は、少なくても、私が過去に読んだ他の作品と似たところがなく、そして、こう言うことに抵抗を感じながら、言い切ることになるのだが、小説なのだろうと思った。

 抵抗を感じるというのは、つまり、この作品は、小説が隠蔽していた小説起源にある暴力を顕在化しているからで、だから、小説の歴史のなかに位置づけてよいのかと考え込む。この作品は、孤児の物語であるという意味で、正統な小説である。そして、近代以降の小説は、孤児が自分の起源を見い出すまでの過程を描く。しかし、その端緒にある暴力は、起源が明かされることによって隠蔽されるという構造を孕んでいる。つまり、なぜ、語り手は孤児にならなければならなかったのか、語り手が孤児になることを強いた社会の不正は、個人の物語に回収されることによって語られずに終わる。これに対し、この小説は、なぜ、この子が孤児にならなければならなかったのかを暴き、そして、それをあからさまにすると同時に、個人の物語を解体して終わる。アウステルリッツは、自分の起源を見つけることができない。その代わりに、この作品は、総体として、どのようなシステムによって、そのような事態が生じたのかを指し示す。果たして、これは小説なのだろうか。しかし、これもまた小説なのだ。そう考える。そうでなければ、小説の歴史は不完全なものになると考えるからであり、おそらくまた、小説とは、幾度も自らを解体することによって、さらに先に進むものだと私が信じているからだろう。

 こうして、長らく続いた『アウステルリッツ』との旅は、不意に終わりとなった。もちろん、この書物からすれば、大阪から横浜への最後の旅が残っているということになるのかもしれないのだが。