逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.02.12 鳥と巨木

 バス停を降りたのは、午前8時の頃だった。白装束のおばあさんだけが降りたけれど、私がトイレに行っている間にどこかに行ってしまった。白装束を身に纏っていたことからすれば、真言宗の巡礼に訪れた人なのだろう。それにしても、こうも簡単に消えてしまうことに驚く。まだ早い時間だから、高野山奥の院のバス停では、人の気配というものがなく、朝日に暖められた氷柱が溶け落ちる音しかない。空気は思っていたほどには冷たくない。

 歩きはじめてすぐに驚くのは、奥の院の騒がしさのことだった。もちろん、誰もいない。鳥の鳴き声と巨大な樹木のあいだを風が抜ける音しかしない。それでも、騒がしいと感じるのは、凄まじい数の墓標がみっしりと木々の間を埋め尽くしているからだった。最初は、墓標に刻まれた文字を目で追うことはしていたのだが、それももう諦めなければならないほど、くっきりと直方体に設えられた真新しい墓標や摩耗し苔むして柔らかな輪郭を残すばかりになった墓標が奥深くまで並んでいる。何処までいっても、人が生きた痕跡ばかりだった。

 だから、私は、山の奥の暗い森の中にありながら、全く不思議なことに、新宿の街中にいるかのような、慌ただしい混乱を感じていた。これだけの人が生きて死に、そうした人を悼む人がいて、そうでなければ、自らの痕跡を残そうとして、今、ともかくも、多くの人たちの思いが地表を覆わんばかりに犇めいている。私は、そうした人たちのことを何一つ知らないし、また、都市生活者の無関心に似て、そうした人たちの思いのことを考えずにすまし、ただ通り過ぎていく。それは、人々と街中ですれ違って、そのことすら忘れてしまうのに似ている。

 頭上では、私を見下ろすような巨木がゆったりと風に揺れて元に戻り、朝の鳥たちが囂しく鳴いてる。墓標は雪に覆われ雨に打たれ、ほどなくして形を失い、塵となり地に落ちて、その上を苔が覆うことになるのだろう。そのとき、鳥の鳴き声と巨木だけが残る。

 歩くのを止めずに、ついに奥の院にたどり着く。空海がいるという御廟には、未だに食事が出され続けていると聞いたことがあり、そこに興味があった。もちろん、そんなものを見れるわけではない。そうしたものは隠されて、人から遠ざけられてこそ、何かしらの意味を有する。私がのこのこと出かけていって、安易に見ることができてしまえば、その意味も失われる。そのことは分かっているが、その近くにいって、やはり見れないことを確かめずにいられない。どういう野次馬根性なのかと思う。

 建物を一周し、中心が空白であることを確かめ、やってきた道を戻る。中心の空白と比べて、いかにその周辺が騒がしいことか。そう遠くない日のこと、私もまた、これらの騒がしき死者の中に取り込まれることになる。そして、私に似た誰かが一瞥もせずに私であった塵の前を通り過ぎる。そのほうが煩わしくなく、人を煩わせることもなく、ありがたい。死者は生者に何も望まない。望むとすれば、私に似た誰かが良い一日を過ごすことだけかもしれない。

 そんなことを考えながら、鳥の鳴き声と巨木の間を抜けて、バス停に向かう。