逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.02.19 驚異


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 ライブハウスは、梅田の駅の向こう側にあって、歩いていこうと思えば、歩いていける距離ではあった。ただ、朝から断続的に降っていた2月の冷たい雨は、15時過ぎにはもう、水たまりを作り出すほどには充分なミリバールになっていた。だから、私は、歩いていくのを諦めて、しかし、どこまでどう行って、何処から歩けばよいのかが分からなかった。

 私は、梅田駅の地下ダンジョンを恐れている。大阪型のやみくろが毒を撒き散らし、たこ焼きやら串カツやら利権やらのいろいろを食い荒らし、跋扈していると思い込んでいる。1月2日に梅田駅の近くの映画館に韓国映画を見るために、かするほどは、梅田に行ったものの、あの時もすぐに地下鉄から地上にあがった。餌になりたくない。

 そうしたわけで、梅田駅で降りて、ということは諦め、新福島駅から歩いていくことにした。新福島駅にやってきたのは、大阪に到着してすぐに羊文学のライブに行った時以来のことで、相変わらずごちゃごちゃして入り組んでいて、ああ、大阪だ、と思うものの、同時に、今、静かに降り続く雨のように普通のことのように感じているところもある。3ヶ月ほどしか経過していないけれど、そう感じる。

 ライブハウスは、線路に沿ってカーヴした広い道路の傍らにあって、その界隈は、まだ開発に取り残されているのか、線路を挟んだ梅田のビル群がひしめく地域に比べると、がらんとしている。どこかしらで東京の湾岸のことを思い出させる。時折、雨のアスファルトの上を車が通り過ぎていく。そうした何もない場所にぽつんとライブハウスはあって、そこだけ若い人たちが並んでいる。

 12月のあの頃とは異なって、今再び、新型コロナ感染症の蔓延がひどいことになっている。大阪では、毎日、全国的に見ても信じられないような感染者や死者の数が叩き出されている。どれほどその場しのぎの言葉を重ねたところで、このような数値が出るようなものではない。第一義的には、施政者の責任だろう。この街を通り過ぎるだけの者ですら、そう思う。これほどの大都市で、多くの人が行き交う街で、保健所が1ヶ所しかない。人々の怒りは、これがおかしいという言葉は、今はまだマスクの後ろに押し込まれているのかもしれない。いずれにせよ、ふたたび息が詰まるような日々に戻ってしまった。

 そうした中、君島大空と荒谷翔大のライブに出かけてよいのかと迷うところもあり、でも、出かけることにしたのは、今、君島大空を見ないでどうするのか、という気持ちがあったからだ。12月の京都と大津で行われたライブのチケットを手に入れることができず、しかも、東京での公演も行くこともできず、臍を噛み続け、味のないガムのようになっていた。ガムを噛み続けるのを2ヶ月過ぎて、ようやく大阪で見ることができることになったのが、この公演だった。

 荒谷翔大は初めてだったが、ブラックミュージックのグルーヴを自転車に乗るかのようにさり気なく容易に作り出す。聞いていると、ああ、時代が変わったのだな、と思い知らされる。

 自分が若い頃には、そんな風に簡単に当たり前のように歌い出すことはなかった。田島貴男でさえ努力の跡が窺えたというのに、今はもう、藤井風といい、何ということなんだろう。そう思っていると、突然、フィッシュマンズの「いかれたBaby」を歌い出し、驚いているうちに曲が終わり、次に、尾崎豊の「ダンスホール」がはじまる。「古い曲をやりました」という言葉に愕然としつつ、フィッシュマンズ大麻で、尾崎豊覚せい剤と、そのあたりは、いかに上手に歌われても隠せないんだな、と不謹慎なことを思う。こういうと、若い人には分からないかもしれない。

 会場は、椅子が並べられており、皆、座りながら、でも、楽しそうにからだを揺らしている。そういった気持のよい歌が続く。ここには、抑え込まれるような、息苦しいような日々はなく、取り巻く空気に敵意はない。開け放たれたドアから吹き込んでくる冷たい空気でさえ優しい。曲と曲との間には、会場の外のアスファルトを通り過ぎていく車に弾かれた2月の雨の音が静かに聞こえる。

 君島大空を今見ないでどうする、と述べたのは、この若者が全く新しい音楽を作り続けているからだ。今見ておかないと、この次には、どうなってしまうのかが分からない。例えば、ご存知のとおり、「火傷に雨」という曲があるけれど、最近は、あの声にエフェクトがかけられ、なかばボーカロイドのような印象を生じさせつつ、しかし、吐息やきれぎれの声といった身体性を失わせることもない。ボーカロイドの身体性。つまり、驚異が次々と起こっている。

 君島大空がはじまると、会場はしんとなる。凄まじい演奏と発想は、土砂降りのようだと言えば足りるだろうか。ひとりでギターだけで出せるような音ではない。微細に刻まれた音は、ほとんどノイズに近いかのように、それぞれが粒子になって飛散するのだけれど、しかし、メロディーが失われるようなことはない。どういうことなのだろう。私は一番うしろの席に座っていたけれど、からだを揺らすといった余裕もなく、音のひとつひとつに射抜かれ、動けなくなっていた人が多かったように感じる。こういう場面はクラッシックコンサートで見かけたこともあったが、ポップミュージックでこのようなことが起こるのかと、そのことにも驚く。

 こうして、いつものように演奏はすぐに終わる。突然、土砂降りの雨が止んだかのような静寂だけが残る。外からは、2月の雨がまだ降り続いているのが聞こえる。もしかしたら、この雨は、晴れと雨を繰り返しながら春に連なっていく、あの雨の最初なのかもしれない。静寂の中で、そんなことを思う。