逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.2.1 親戚系

 私の中だけの話にはなるが、「親戚系」とカテゴライズしている飲食店がある。親戚の家のような店のことを指す。外からみれば、寂れているものの、店の前には、メニューを記した立て看板が掲げられ、電灯もついている。ただ、やけに繁茂したカネノナルキの植木鉢もおかれており、バランスとしては、年寄がいる家に傾きつつある店構え。

 「大丈夫かな」と思いつつ、グーグルマップの評価はそんなに悪くない。だから、大丈夫だろうと思って、扉を開くと、カウンターの上には、よく分からない人形や旧式の加湿器がおかれており、店の奥には、材料が入っていたと思しきダンボールが積まれている。総じて、雑然として埃っぽい。大丈夫ではないと気づくのだが、もう、その時には、「いらっしゃい」と声をかけられてしまい、出ることもできなくなっている。

 席に座る。「何にしましょ」とおばあさんに言われる。とりあえず、お好み焼きを頼んでみたりする。ついでに、生ビールも頼んでみる。そうすると、おばあさんが「ああ」と残念そうな声をだし、無言になる。不安になっていると、「うちは、生ビールだとなかなかなくならへんから、瓶しかあらへんけど、瓶を生ビールだと思って、ええですか。同じだから。」と言われ、「は、はい」と答える。グラスにビールが注がれ、残りは何処かに消えてしまう。ビールを飲みながら、店内を見渡すと、確かに、メニューやビール会社のポスターも貼られているが、四人がけのテーブルの上には、新聞が広げたままになっており、カウンターの上の人参からは芽が出ている。まるで、親戚の家に来たかのような、何とも言えない居心地。

 注文してから出てくるまでの間が微妙に長い。ぼんやりとしていると、突然、扉が開かれ、客がやってくる。客は「まいど」という。続けざまにまた扉が開く。カウンターの中のおばあさんが「まあ、えっちゃん。久しぶり。どうしていたの?」と尋ねる。えっちゃんは「入院してたねん」と答えると、「え、大丈夫やの。」と心配そうにする。えっちゃんは「で、今日は鯖寿司買ってきてん。お皿いい?」と言うや否や、皿を取り出して、お好み焼き屋であるにもかかわらず、鯖寿司を食べはじめる。子供の頃、親戚の家にいき、伯父さんや伯母さんのよく分からない会話を聞きながら寿司を食べていた時のことを思い出す。どうやら、ここには、俺の居場所はないようだ。「飛び出せジョニー」という歌詞が頭に浮かぶ。「まいど」と入ってきた野球帽子の男は注文していないはずだが、よく分からない料理が当たり前のように出される。

 思いのほか長くなってしまったが、これが「親戚系」の大雑把なあらましになる。そして、大阪にやってきて、何度か、そういう店に入ってしまった。どういうことなのだろうと考えてみたが、「親戚系」のお店は、ひとつのコミュニティのようなものであって、いわば都市空間の中に穿たれた村落共同体であると考えると、なんとなく説明がつくのではないかと思う。つまり、その村落共同体からの熱烈な支援がグーグルマップの星に反映されており、その星を参照してお店を探すと、そういうことになる。都市に包囲された農村という言葉を思いつく。

 今日もまた、カレーが食べたくなり、グーグルマップを参照して探しだした薬膳カレーの店が「親戚系」だった。「親戚系」の料理は、コミュニティの熱烈支援によって、独自の進化を遂げていることが多いのだけれど、今日の「親戚系」の薬膳カレーもそうした特徴を備えていて、つまり、カレーというよりも、漢方薬のペーストといった趣の味であり、これが夕食だと思うと、腹が立つが、オミクロン株が猛威を振るう中、風邪薬を食べていると思えば、ぎりぎり許されるのではないかと思った。1300円のカレー風味が全くない漢方薬のペーストが乗せられているご飯をもぞもぞと食べていると、私のあとに入ってきた背後の客が「湯豆腐!」と大きな声で注文した。