逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.02.12 Texture rather than Structure

 

 今の時代にあって、小説を書きはじめるというのは、難儀なことだ。どうしたところで、それまでの小説と比べられるのは避けられないし、また、比べられることを想定して、何かしらを書こうとすると、断食芸人のようにがんじがらめで身動きとれず、ということになりかねない。同じ作家の『眠りの航路』は、あるところでは、そうした難しさを真正面から引き受け、良いところに溢れていたけれど、作品全体としてみると、噛み合わせがうまくいかないところもあった。もちろん、私は好きだけれど。

 『自転車泥棒』では、そうした難しさは、あっけらかんと、しかし、たくましく切り抜けられている。作者は、自分が書いたものを引いて、実は、この前の話はちょっと脚色していたのですよと打ち明けつつ、小説を書くと言っても、実はなかなか難しいところもあるのですよと率直なところも吐露する。そうかと思えば、難しい場面では、例えば、ティム・オブライアンの『カチアートを探して』やバルガス=リョサの『密林の語り部』といった偉大な作品を彷彿とさせる世界を築き上げることによって、その世界を豊かにし奥行きを広げる。『自転車泥棒』には、頭のなかで思い描いている世界に物語をどう近づけるかと考え込み、書き倦ねていたような、『眠りの航路』の作者の姿はない。飄々としつつ、堂々としている。

 物語は、父親が乗っていた自転車が盗まれるというところからはじまり、そして、それが取り戻されるまでの過程を描く。

 こう書いてしまうと、ネタバレと叱られるかもしれないけれど、しかし、安心して欲しい。『カチアートを探して』のことを語るのに、カチアートがいなくなったので、みんなでカチアートを追いかける話と言ったところで、何も分からないのと同じで、この物語にそう語ったとしても、何も言ったことにならない。マイルス・デイヴィスならば、私の言葉に「で?」と返すはずだ。

 そうは言えども、あまり詳しく語りすぎるのも良くないので、物語の骨格については、自転車をめぐるごくごく個人的で断片的なエピソードと自転車の技術史とが対位法的に奏でられ、戦時下で死に生き延びた人々の物語と戦争が終わった後の物語とが交差し絡み合いながら進んでいくといったところに留めておく。

 ただ、強調しておきたいのは、そこにおいて、血が流れ骨肉が飛び散る個人の世界の側から近代台湾の植民地としての歴史が語り直されているということで、だから、失われた自転車のパーツの1つ1つを手に入れ磨き上げ組み立て、ついに父親の自転車を蘇らせるといった語り手の作業は、台湾の戦時下の、そして、その戦後の歴史の1つ1つを個人の側から組み立て直すといった語りのプロセスと相似形をなしている。こうした小説の構成は見事というほかない。

 しかし、小説の構成がいかに見事であったとしても、作品が成功したことにならない。もっといえば、少なくても私の考えでは、構成が失敗していたとしても、物語の手触りが優れていれば、それでいい。そして、この作品は、その手触りにおいて、本当に優れている。

 とはいえ、なにをもって手触りなのかと問われると、言いよどんでしまうところはある。何とか示せればいいと思うが、例えば、この作品の中には、大日本帝国の植民地下の台湾に連れてこられた「一郎」という名前のオランウータンのエピソードがある。一郎は小学校の飼育小屋で飼われ、教師や児童たちと親交を結び、お互いに愛し愛され過ごす。なかでも、一郎は「筋肉がどこにも見当たらないようなガリガリ」で同時に「繊細なピアニストの手を持っていた」「折井先生」のことが好きだった。しかし、ある日、一郎は、事情があって動物園に引き取られることになる。その最後の場面はこのように描かれる。

その日の午後は休校となり、動物園まで陽光と木陰がまだらに続いていく大通りを、折井先生と一郎が親子のように手をつないで歩いて行き、児童たちはそれを見守った。柔らかな赤毛は飽和する太陽の光に照らされ、不思議な輝きを見せていた。人間のように歩く後ろ足は、少しO型に彎曲し、別れというものをそこまで理解していない子どもたちに初めて、遣り場のない心の痛みを感じさせていた。

 この場面に至るまでの一連の描写をすべて引用してしまいたいくらいなのだけれど、そういうわけには行かない。ただ、感じてほしいのは、南国の刺すような光があり、赤茶けたまっすぐの道があり、そこには、まばゆいばかりの白いシャツを着た折井先生とオランウータンの一郎の細いシルエットの2つの短い影が落ち、小学生の子たちから遠ざかり、ついには、点になってしまう、そうした情景のことだ。たとえ構成がどうであれ、そんな情景の1つを十全に示すことができれば、その小説は成功しているといえると私は考えている。それに触れることができれば、少なくても、私には充分だ。

 分かりにくいし漠然としているとは思うけれど、小説の手触りという言葉で指し示したいのは、そうした感覚のことであり、この作品はその手触りに溢れている。タイミングがあえば、ということになるかもしれないけれど、ぜひ読んでみて欲しい。