逢うも逢わぬも

    眠気のなかで

2022.5.28 大正区から西成区まで

 土曜日の朝がやってきて、明るい。その日の予定は考えていなかったが、こんなに晴れた日なのに何処にもいかないのももったいない気がした。

 大阪環状線大正駅で降りたのは、ちょうどお昼過ぎで、その日は、オリックスと何処かの野球チームの試合がされていたようで、ユニフォームを着た人が多い。大正区というと、沖縄と考えていたから、そういうものかと思う。

 私は私で、ガード下の沖縄料理屋に並んで入る。オリオンビールと、沖縄そばともずくの天ぷらと、メニュウを見ていたら、変に懐かしくなって、グルクンの唐揚げを頼む。グルクンの唐揚げは、那覇新都心おもろまちにある居酒屋で夕食をとっていた時、隣にいた人がなぜかお土産にもたせてくれたのだった。

 その人はなんでも地主とのことで、お金は有り余るほど持っていると述べていた。実際、東京に1年に何度も遊びに行っているようで、いろいろと東京やら横浜やらのことをいう。ひとしきり話をした後に名刺を渡され、遊びに来てくださいという。最後に、その人は、そのお店のグルクンの唐揚げをお土産にくれたのだった。その時は、沖縄とは、そういうものかと思ったが、今考えると、そういうものではないだろう。

 大正駅のガード下の沖縄料理屋で食べたグルクンの唐揚げは、それにしても、すごく美味しく驚いた。こんなだったかと思うが、実際、沖縄で食べたグルクンの唐揚げのことは記憶にほとんど残っていないので、比べようがない。

 大正駅の駅前は、大阪環状線の駅といった感じで、つまり、福島駅や天神橋筋六丁目駅のことを彷彿とさせる片付けが常に済んでいないような家を思い出させるところがあったのだが、そこからバスに乗って、リトル沖縄と呼ばれている場所までいくと、まっすぐの都市計画道路と建売住宅が並ぶ閑散とした土地になり、そこはもう、川崎や横浜の鶴見の海側の町並みとほとんど違いがない。私は、ずいぶんと長い間、そうした土地で働いていたから、既視感に襲われて、バスを降りるとすぐに懐かしさを感じてしまう。

 シャッター街の商店街を抜けて、どうしたものかと思い、そういえば、と思い出したのは、西成区に抜ける渡し船があるはずだということで、だから、私は、そのまま渡し船の乗り場まで歩いていく。工場があり、トラックが白い埃を巻き上げて走り抜けていく。ここは、そういうところなのかと確認する。渡し船で運河を越えるときもまた、そうか、そういうところなのかと再び確認する。つまり、工業地帯であって、横浜の鶴見や川崎や大田やといった京浜工業地帯と同じ場所で、そうであれば、たしかに、私には馴染みがあると思う。

 渡し船はあっという間に西成区にわたり、私は、ふたたび歩きはじめようとして、それにしても、何処に行こうかと考え、そうであれば、あいりん地区まで歩こうか思う。遠くには、あべのハルカスの高い塔が見える。小さな町工場がある界隈を抜け、幹線道路をいくと、あべのハルカスが少しずつ近づいてくる。

 新今宮駅のガード下を抜けると、路上生活者の家が連なり、あいりん地区になり、簡易宿泊所の看板が目につくようになる。おじいちゃんと言ってよいような年齢の人が西日に照らされ、ふらふらと歩いている。あべのハルカスが見下ろすように建っている。

 何をするつもりでもなく、やってきてしまったが、それにしても、ここまで歩いてきたからということもあるのか、何となく腑に落ちるところはある。工業地帯や港湾地区で働いていた人がここで生活をするには良かったのだろうという実感がある。川崎にも横浜の鶴見や中区にも、規模は西成のほうが大きいようにも思うけれど、こうした街はあり、工場から街への距離の感覚は似ている。それにしても、街を歩いていると、休日の午後だったためか、飲み屋から聞こえてくるのは、大音量のカラオケで、だから、街全体が騒がしく、奇妙な祝祭感を覚えなくもない。もっとも、それは、ただの通りすがりの者の印象であって、街からすれば、ただの日常なのかもしれないとも思う。

 商店街を抜けて荻野茶屋駅のガード下まで来て、南海電鉄に乗って帰るのは面倒だと思い、もう一度、街を抜けて、動物園前の駅まで歩くことにする。交差点をひとつわたっただけで、ドヤ街といった雰囲気が一気になくなるのを奇妙に感じるけれど、そういうものかもしれないと思い直す。それにしても、なぜ、そういうものなのか。考えてみるが、うまく言葉にならない。